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明治のインバウンド観光地 河内の古墳群が再び脚光 (1/2ページ)

 【萌える日本史講座】

 大阪と奈良の府県境を南北に延びる生駒山地の西麓に、6世紀ごろ朝鮮半島から最先端の技術や文化をもたらした渡来人が眠る古墳群がある。大阪府八尾市の高安千塚(たかやすせんづか)古墳群。江戸時代には観光スポット、明治になると欧米の学者がたびたび訪れた。大森貝塚(東京都品川区)の発見で有名な米国人・エドワード・モースも調査をし、日本の古墳が世界に知られるきっかけになったが、その後は長らく地元でも忘れられた。しかし平成27年に国史跡に指定、昨年には「高安千塚古墳群」(新泉社)が出版され、再び注目されている。(小畑三秋)

 江戸時代は盗掘のターゲット

 上半身をはだけた男たちがしきりに鍬(くわ)を振るって土を掘り返し、土器を高々と掲げている-。

 江戸後期の1800年代の観光ガイドブック「河内名所図会」には、高安千塚古墳群を描いた一風変わった絵がある。石室から、勾玉(まがたま)や土器を掘り出す盗掘だ。「江戸時代の名所図会で、盗掘の様子まで詳細に描いたものは他にない。(ここでは)いかに盗掘が盛んだったかが想像される」と、八尾市教委の藤井淳弘・文化財課係長は話す。

 高安千塚古墳群は、現在230基確認されているが、江戸時代には500基以上あったとみられ、近畿でも有数の大型群集墳。直径10~15メートル規模の円墳が多く、6世紀初めから築かれ、埋葬施設の大半が横穴式石室であるのが特徴だ。

 ぽっかりと口を開いた横穴式石室は、盗掘にはうってつけ。さらに、同古墳群のある生駒山麓は京都から高野山に通じる東高野街道が通り、高野山への参詣道だった。その途中にある同古墳群が盗掘のターゲットにされたというわけだ。

 明治になると、開国によって次々と来日した欧米人らが、河内名所図会を参考に同古墳群を観光などで訪れた。まさに「インバウンド(訪日外国人)の先駆け」だった。

 現在も古墳群を歩くと、寺院の境内や集落に古墳が点在し、石室内に作業用の資材が置かれたままの古墳も。時代を超えて、人々の暮らしに根付いた存在となっている。

 大陸との玄関口

 大阪の古墳といえば、国内最大の前方後円墳、仁徳天皇陵古墳(堺市、墳丘長486メートル)など、世界文化遺産に昨年登録された百舌鳥(もず)・古市(ふるいち)古墳群が有名だ。

 しかし大阪の巨大前方後円墳は6世紀にほとんど姿を消し、代わって生駒山地西麓に数十メートル規模の群集墳が築かれるようになった。

 そのうちの一つが高安千塚古墳群。同古墳群に多い横穴式石室は朝鮮半島から伝わり、副葬品も朝鮮半島の特徴を持つ土器などがあり、渡来人を含む渡来系集団が多く埋葬されたとされる。

 渡来人は、朝鮮半島から九州、瀬戸内海を経て大阪湾に入り、まず拠点を置いたのが大阪市東部から生駒山地西麓にかけての河内平野。中国・朝鮮半島からの玄関口として発展し、この地から大陸の最新技術などが広がった。

 河内平野では、朝鮮半島系の土器や鉄製品、集落跡などが多数発掘されている。河内平野一帯に拠点を置いた渡来系集団は、こうした地域を見下ろせる生駒山地西麓に高安千塚古墳群などを築いた。

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