ラーメンとニッポン経済

1950-満鉄エンジニアが見た 「札幌味噌ラーメン」の夢 (1/3ページ)

佐々木正孝
佐々木正孝

 全国至るところに、各地の魅力を内包したご当地ラーメンがある。博多に豚骨があれば、和歌山には醤油豚骨が、東京には醤油ラーメンが。そして、北の大地で熱々の油膜を張る濃厚ラーメンがある。そう、ご存じ札幌味噌ラーメン。その時代に出現したラーメン店を軸に日本経済の興隆と変貌、日本人の食文化の変遷を見ていく本連載。第2回は戦後復興期から高度経済成長へ疾駆する中、北から発信を始めた「札幌ラーメン」に焦点を当ててみよう。

■帝政ロシアの騒乱から、北都で原初ラーメン文化が開花

 その料理人は、シベリアからやってきた。札幌ラーメンの始まりは、北海道大学の正門前で写真館を営んでいた大久昌治が開店した『竹家食堂』と言われる。北大に留学していた中国人留学生でにぎわったこの食堂に雇われたのが、王文彩。シベリア出兵中に勃発した尼港事件による混乱を逃れ、ニコライエフスクから樺太経由で逃れてきた、中国酒家の料理人だ。彼の腕を買った大久は1922年(大正11年)、店名を『支那料理竹家』としてリニューアルし、王が手がけるメニュー「肉絲麺」を加えた。塩味の鶏ガラスープに細切りにした豚肉とタケノコ、ネギ、そして手延べ麺を合わせた大陸風の中華料理だったという。

 その後、大久は肉絲麺をベースに製麺機による麺、焼豚・メンマ・キクラゲというトッピング、豚骨や丸鶏、野菜からとったスープに醤油で味つけ。東京・横浜でブレイクした支那そばをいち早く技術移転して「ラーメン」というメニュー名で提供した。北大への出前などで若い世代を中心に大流行し、後発店も続々。最盛期には喫茶店のメニューに置かれるまでになったという。戦前の札幌には、既に一大ラーメンブームがあったのだ。しかし、レシピは竹家食堂流、つまり戦前の支那そばテイスト。醤油ベースで淡め、シュッとした面持ち。現在の札幌ラーメンの濃い風貌とは似ても似つかない。

 --札幌で暖簾をくぐり、味噌ラーメンを頼もう。丼からはまったく湯気が立たないが、それは表面をラードがビッチリと覆っているから。箸を入れると、もうもうとした熱気が立ち昇る。箸で分け入ると、そこには濃度高めのスープ。口に運べば、味噌がどっしり。野菜のダシ感やニンニクエキスも下支えする濃厚な味わいに、思わず口角が上がる。モッチリ太めのちぢれ麺は加水率高めでじっくり熟成され、モヤシや玉ねぎなどの野菜に負けないストロングな食感。黄色いルックスで、茶濁スープの中にも沈み込まず、存在感を発揮する--このようにワイルドな姿こそ、札幌“味噌”ラーメンのデファクトスタンダードである。

 味噌をフォーマットとする札幌ラーメンの仕様はいかにして開発されたのか。そして、ご当地ラーメンの嚆矢として、いかにして全国に波及していったのか。そのヒストリーを振り返ると、あるキーパーソンの姿が浮かび上がった。彼こそは南満州鉄道(満鉄)で当時最先端の機関技術を学んだエンジニアだ。

■1950年 さっぽろ雪まつりと同年に開店した『味の三平』

 時は戦後直後。札幌は南7条、すすきのの路上。本連載第1回で「ヤミ市発のラーメン」が戦後ラーメンのロケットスタートとなったことに触れたが、札幌の戦後ラーメンも小さな屋台から始まる。1946年、松田勘七が『龍鳳』を開業。大宮守人は松田勘七を師匠として屋台を引き、1950年に店舗『味の三平』を構えた。

 朝鮮戦争が勃発し、日本経済は特需の後押しがあって、雪崩式に高度経済成長期へと突入。幕末の開港から栄えていた函館、戦前の北海道経済の中心だった小樽を抜き去り、戦後の札幌は北海道行政のセンタースポットとして、そして経済・商業の中心都市としてプレゼンスを増しつつあった。国民の所得水準が著しく向上していく中、札幌は観光を起点とするテイクオフを図っていく。

 1950年、第1回「さっぽろ雪まつり」開催。今や冬の風物詩、北海道観光最大の行事として君臨するビッグイベントが産声をあげた、まさにその年にオープンしたのが『味の三平』だ。翌51年には日本航空が国内線の運航をスタート。東京を発った「もく星号」が千歳空港に姿を見せる。道内でも札幌-千歳間の弾丸道路が開通。内地からの観光客を札幌へ呼び込むインフラは着実に整備が進んだ。

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