ラーメンとニッポン経済

1960-働く者たちを奮い立たせたスープの味 労働者たちの汗が求めた「背脂ラーメン」伝説 (2/3ページ)

佐々木正孝
佐々木正孝

■製鉄のまちに北九州発のソウルフードが息づく

 製鉄と歩んだラーメンもあった。終戦直後、傾斜生産方式によって全国の鉄鋼生産が集中した八幡製鐵所。朝鮮特需で戦後復興をリードする一方、煤煙による公害も深刻なものとして指弾された。戦後ニッポン経済の光と影。八幡製鐵所の沿革をたどれば、そこにも忘れ得ぬ一杯がある。

 1960年、八幡製鐵所は千葉県君津地区への進出を決定。日本最大の消費地である首都圏の鉄鋼生産拠点として、1965年に君津製鉄所が創業する。北九州から房総へ--工員、その家族約2万人が大移動。団地が立ち並んだ君津は「リトル北九州」の様相を呈したという。

 九州人を追ってきたのが、ラーメンだ。北九州でラーメン店を営んでいた店主が君津市内の八重原団地に『元祖九州ラーメン日吉』を出店。その後、大和田団地にも支店を開く。特徴は、豚骨と鶏ガラを強火で炊き上げて完成する白濁スープ。ほのかに豚が香りつつ、さっぱりとした味わいだ。東京で九州ラーメンがブレイクしたのは80年代からだが、60年代後半から君津では本場のラーメンが九州人の舌を喜ばせていたのだ。

 君津製鉄所は1968年に第1高炉が火入れされ、銑鋼一貫体制を確立。一時は世界最大の粗鋼生産量を誇り、日本鉄鋼業のセンターとして名を馳せた。それも、大移動で房総の地にやってきた九州人たちの奮闘があってこそだ。ラーメン評論家の石神秀幸氏は「現在のように流通が発達していなかった時代、故郷の味が食べられる日吉の存在は、どれほど人々の力になったことだろう」と、ソウルフードとして力を発揮した君津豚骨のプレゼンスを語る。

 鉄鋼メーカーが相次いで高炉休止に動く中、君津製鉄所は国内トップクラスの設備と生産量を維持し、高らかに掲げた旗を下ろそうとしない。鉄のまちと伴走してきた君津豚骨もまたしかり。本場九州、そして首都圏の豚骨ラーメンも極濃にシフトしつつある中、古き良き豚骨ラーメン60'sをしぶとく残し、往時の志を感じさせてくれる。

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