■工場の出前から進化した「背脂煮干し+極太麺」
列島を工場で埋めつくせ! 1960年代、日本は工業生産に注力。しゃにむに生産拡大を目指していた。1962年には全国15地域が「新産業都市」となった。道央や秋田湾、新潟、富山・高岡、中海、東予、大分など15地域が指定され、各地で工場の誘致が進んだ。
周辺の地場産業も、家内制手工業から工場制機械工業への移行を迫られていく。そのきしみの潤滑油となったのが、「燕三条背脂ラーメン」だ。発祥は金属加工製品の一大産地として知られる新潟県燕市。燕は古く1914年から金属洋食器の量産が始まり、工場労働者が激増した町だ。そんな地にやってきたのが、中国浙江省出身の徐昌星。彼は1932年頃に市内で屋台を構え、中華そばを提供し始める。
徐のラーメンは、汗をかく工場労働者のリクエストに応えて次第に濃く、しょっぱい味へとシフト。改良を重ねる彼はスープに甘みとまろやかさを加えるべく、中国でポピュラーだった背脂をレシピに加えた。既に1937年頃、燕市では背脂ラーメンが工場労働者に愛されていたのだ。
戦中戦後の動乱を経て、洋食器の対米輸出が急増した高度経済成長期。徐が店舗として構えた『福来亭』は、工場の出前だけで1日800杯を提供し、残業に勤しむ工員たちの胃袋を満たした。労働者が好む濃厚な味つけに加え、スープが冷めないように背脂がこれでもか! と振りかけられ、出前でものびないように麺はさらに太く。かくして、背脂がビッシリと表面を覆う濃厚な煮干し醤油スープに、うどんのような極太麺がたゆたう「燕三条背脂ラーメン」が姿を現す。
『福来亭』は徐の出身地である浙江省の地名を取り、現在は『杭州飯店』として活況。背脂ラーメンは燕市から三条市に広がり、新潟を代表するご当地ラーメンとして全国に名を轟かせるようになった。地場産業と共に生まれ、食の面からものづくりを支えた魂の一杯。首都圏をはじめ、今や全国で食べられる味だが、そのルーツに思いを馳せれば、また違った感慨で胸、胃袋が満たされることだろう。
東京背脂、君津豚骨、燕三条背脂--60年代の労働者たちを支えたラーメンをダイジェストで紹介した。私たちは、あの頃と同じ夢を見ることはできないかもしれない。しかし、働く者たちを癒やし、奮い立たせたスープの味、背脂の甘みは健在だ。不透明で予測のつかない今こそ、創意を育んだ職人たちのプライドを味わいたい。
【ラーメンとニッポン経済】ラーメンエディターの佐々木正孝氏が、いまや国民食ともいえる「ラーメン」を通して、戦後日本経済の歩みを振り返ります。更新は原則、隔週金曜日です。アーカイブはこちら