ラーメンとニッポン経済

1987-「環七ラーメン戦争」 九州ド豚骨、濃度とスメルで東都に進出! (4/5ページ)

佐々木正孝
佐々木正孝

 折しも、平日夕方のニュース枠には地殻変動があった。逸見政孝・幸田シャーミンのコンビによる「FNNスーパータイム」がスタートしたのは84年のこと。同番組のヒットを受け、「NNNライブオンネットワーク」(日本テレビ・87年開始)、「600ステーション」(テレビ朝日・89年開始)、「JNNニュースの森」(TBSテレビ・90年開始)と、各キー局が追随し、ゴールデンタイム前のニュース番組は雪崩を打って情報バラエティ色を強めていった。そこで格好のネタになったのが、環七ラーメン戦争をはじめとするトレンドフード、外食業界のニュースだ。こうして、「環七ラーメン戦争」は90年代のバズワードにのし上がった。

 ゼロ年代に入っても、メディアの注目は冷めない。2003年発刊のムック『ラーメン王・石神秀幸徹底調査最強のラーメン!』(マガジンハウス)では、ラーメン評論家の石神秀幸が「環七全店制覇に挑む!」と題し、内回り外回りの111軒を巡るルポを掲載したほどだ。ただ、ツートップの一角『土佐っ子』が創業者の引退などトラブルを抱え、1998年に閉店。『なんでんかんでん』も売り上げダウンの危機に直面していた時期でもある。

 2012年11月に、『なんでんかんでん』もクローズしたが、当時の川原は日本経済新聞の取材に「主要な顧客層の若者が車でやってこなくなったのですよ。7、8年前ころからはその傾向が顕著になり、客数が激減しました」と答えている。

 そう、メディアの過熱と裏腹に敗勢の兆候はあった。2006年には道路交通法が改正され、駐禁取締の厳格化によって環七も路上駐車が激減。駐車スペースを取りづらいラーメン店は客の減少に直面した。苦境に拍車をかけたのが、いわゆる「若者のクルマ離れ」だ。2000年には1600万人を超えていた20代の運転免許保持者も、2011年には約3割減の1163万人に。地方のロードサイドには「ファスト風土」文化が浸透したが、東京郊外の環七には厭戦ムードが漂っていたのである。

 90年代、過熱した環七ラーメン戦争に参戦したのは団塊ジュニア世代だった。携帯電話もメールもまだ普及していない時代、若者たちは車でレジャーにでかけ、同乗する車内でダベり、コミュニケーションを図っていた。しかし、ゼロ年代に登場したのはバブル崩壊後の低成長期に育ち、身の丈で遊ぶことを指向するゆとり世代。駐禁のリスクを犯して遠出することはないし、そもそも車に乗って遊びに出ていくこともない。参戦者が途絶えれば、ラーメン戦争も終戦を強いられるのが宿命だ。

 現在、環七で存在感を放つのは、2000年にオープンした『せたが屋』だ。豚骨・背脂チャッチャ系が猛威を奮った環七ラーメンシーンにあって、魚介を押し出した醤油ラーメンで勝負。翌年には、昼営業のみ屋号を変えて塩ラーメン専門店『ひるがお』として営業する「二毛作」スタイルを業界に先駆けて導入。駐禁取締厳格化をサバイブし、調味料なしでラーメンを作る『ラーメンゼロ』、女性スタッフのみで切り盛りする『小麦と肉 桃の木』などを打ち出し、創意と企画力でゼロ年代~テン年代のラーメンシーンを先導している。

 では、環七ラーメン戦争の中核になったツートップの現在は? あのスメル、背脂の雪景色は消え去ってしまったのか……?

Recommend

Ranking

アクセスランキング

Biz Plus