凄惨極めた遺体収容
動けなくなった若い隊員に活を入れたのはベテランの下士官(二曹)だった。
「バカやろーッ。何やってるんだお前たち!」
われに返った隊員たちに木を切ってこさせ、応急の担架をこしらえた。木には既述した着物の帯などの他、乗客も引っ掛かっていた。しかも、身長が2メートルにも伸びて…。
年配者には、大日本帝國陸軍出身者もまだいて、実戦経験のない自衛官とは対応の仕方が違った。大きなポリ袋もなく「人の体の一部を戦闘服のポケットに入れていた」という。全ては「早く仏様を奇麗にして遺族に返したい」思いから。自衛官の優しさは、がれきの下にご遺体があると信じ、野外では尿意とも「戦った」東日本大震災(2011年)で出動した自衛官に、DNAとして受け継がれる。マレーシア航空機撃墜後、遺体を長い間放置し平然としていた親露派民兵は見倣うが良い。
雫石では33度超の猛暑との「戦い」でもあった。中隊は、雫石町中心部の手前5キロの地点で車輌点検のため停車した。既にこの場所でにおった。同じ7月に起きたマレーシア航空機撃墜では、民兵がマスクをしていたが、雫石では大量のマスクを携行する余裕などなかった。