一方、渡仏してロダンの「考える人」に大きな衝撃を受け、ロダンから教えを受けた荻原は、彫刻家を目指し08年に帰国した。新宿にアトリエを構え、午前中は彫刻の制作、午後は中村屋で過ごすという生活が続く。やがて荻原の芸術家仲間や新聞記者らが集まるようになる。10年、荻原が死去。11年に中村屋裏に荻原のアトリエを移し、「碌山館」と名付けて作品を公開した。
荻原と交流があったり、中村屋サロンに集まった芸術家は、彫刻家で詩人の高村光太郎(1883~1956年)、夏目漱石の「吾輩は猫である」の装丁画で知られる書家・洋画家の中村不折(1866~1943年)、中村屋裏のアトリエに住んだ画家の中村彝、彫刻家の中原悌二郎(1888~1921年)、歌人で書家の會津八一、新劇女優の松井須磨子(1886~1919年)らで、延べ40~50人に上るという。
しかし、荻原、中村彝、中原らサロンの中心人物が結核によって30代の若さで他界。さらに、45年の空襲による店舗の焼失や、54、55年の相馬夫妻の死などで、戦後は急速に衰退した。