「やっぱり、最中は美味しい!」 和菓子にまつわる“重さ”

 

 日本に滞在している時は全然欲しくないのに、イタリアに戻ると無性に欲しくなるものに和菓子がある、ということを以前、この連載コラムで書いたことがある。

 それには和菓子にまつわる「重さ」が関係している、と。和菓子は贈答品需要が圧倒的に多い。他人の家に訪ねる際は手ぶらではなく何か手土産を、と和菓子が使われる。そして使いまわしされる。

 先月、お盆の時期に滞在し、この和菓子が飛び交うさまを目の前でみていて、和菓子に手を伸ばしたいと一度も思わなかった。それよりも、いったい和菓子はどういう運命を辿るのかと考えた。

 まず、使いまわしを経て最終的に箱を開けるに至る率はどの程度なのか? 箱も開けずに賞味期限を過ぎた和菓子が家の何処かに隠れているケースは多いだろう。

 仮に箱から菓子がテーブルの上に出され、それら人の口にはいるのはどの程度なのか? なぜなら日本の菓子はお客さんに出されたとしても、手をつけずにそのままというシーンが少なくない。羊羹に半分手をつけ、残すとか。

 最初、日本茶と菓子が出され、一定の時間が経過するとコーヒーとくだものがでてきて、結局、和菓子を残してさっぱりしている果物に手を出す、とのプロセスも考えられる。

 

 そうした和菓子は捨てられることが多いだろう。贈答品という義理を動機として市場に流れたものは、義理を果たすべく人の手に渡り、どこかで消える。

 この一連の動きが醸し出す空気が「重い」。

 だからか、ぼくは日本で生活している時、正月のおせち料理以上に和菓子を遠目に眺めていた。自分で食べたい、と思うことはなかった。目の前に出されても、食べることは少なかった。喜んで食べる人たちの気がしれなかった。

 それが今、日本を離れる時に空港の売店で必ず餡子ものを買う。最中などちょうど良い。

 かといってミラノに着いた日に食べるのではない。到着した晩は、ボンゴレのスパゲッティだ。我が家では毎週末、ボンゴレのスパゲッティを食べるようになってもう10年以上になる。その習慣が日本滞在中は途切れる。したがってミラノに戻る日が平日であろうと、ボンゴレのスパゲッティなのだ。

 地中海料理を満喫するのが第一日目だ。

 餡子ものには賞味期限がある。特に最中は皮が湿っぽくならないうちに食べたい。とすると二日目には食べ始めないといけない。二日目もイタリア料理が欲しいが、デザートだけ最中にするわけだ。

 この瞬間、もう「やっぱり、最中は美味しい!」と思える。料理は和食から少々距離をもちながらも、日本では見るのもウンザリしていた和菓子にイタリアに戻った48時間以内に目を向けている。

 この心境の変化には我ながら驚く。日本にいる時は、明らかに和菓子を流通させる「昭和的状況」に目を背けていたことに、こうして気づくのである。

 和菓子にまつわる文化的重みから離れれば、実際に人の口に入る確率はもっとあがるのではないかと思う。和菓子が贈答品市場に頼っていることの良い面と悪い面があるはずだ。

 少なくても持続性ある社会という観点でみた時、人の口に入ることが思いのほか少ないかもしれない食品は、そこにイノベーションのネタがないか検討すべきではないか。

 あまりに凝ったパッケージや思わせぶりの説明を読めば読むほど、そう感じる。もっと軽い表現で挑戦的な和菓子が風穴をあければ、まったく違ったファンが生まれてくる。

 因みに、以上はデータに基づいた話ではない。ぼくの個人的な経験範囲での感想だ。だから全然違った実態であるかもしれない。もし、そうであるとすれば、違った事情を教えて頂きたい。

 なにかとてつもなく面白いネタが、この周辺に眠っている気がして仕方がないのだ。(安西洋之)

【プロフィル】安西洋之(あんざい ひろゆき)

上智大学文学部仏文科卒業。日本の自動車メーカーに勤務後、独立。ミラノ在住。ビジネスプランナーとしてデザインから文化論まで全方位で活動。現在、ローカリゼーションマップのビジネス化を図っている。著書に『世界の伸びる中小・ベンチャー企業は何を考えているのか?』『ヨーロッパの目 日本の目 文化のリアリティを読み解く』 共著に『「マルちゃん」はなぜメキシコの国民食になったのか? 世界で売れる商品の異文化対応力』。ローカリゼーションマップのサイト(β版)フェイスブックのページ ブログ「さまざまなデザイン」 Twitterは@anzaih

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