「生活者」の本音を知る難しさ 米大統領選を語らない理由
米国の大統領選挙について語る気になれないが、語らない理由は書ける。結果が大方の予想と違ったからではない。米国のことがよく分からないから語らない。ただ、それだけだ。
選挙後に大量の記事を読んだ。投票の分析にも目を通した。結論は、やはり分からない、としか言いようがない。
投票行動とは合理的な判断と感情の両方がまざっている。だから政治社会的な善悪と経済的な損得の優先順位について分かり、生活圏での気分が伴わないと、投票者の決断がはっきりとみえてこない。
イタリアに住んで26年になるが、イタリアのことも実感として分かるには時間がかかった。正直にいえば、今も分からないと言えば分からない。が、仮に日本にずっと住み続けていたとしても、日本のことで分かることなんて極めて狭い範囲に限られるだろう・・・ということは確信をもって言える。
ただ、分からないと言い続けても仕方がないから、どこかの段階で、「こんな感じで分かったことにする」という線をひく。そのレベルでは、英国のEU離脱の国民投票の結果は、「そうかもなあ」と思える部分がもっとあった。
米国の選挙結果にも、「そうかもなあ」とは思うが、他人に説得性のある説明ができるほどではない。
それだけ人々の本音を知るのは難しい。
昨年9月、食をテーマにしたミラノ万博開催中、福島の食の安全を議論するカンフェランスを企画実施した。この企画を提案する必要性を痛感したのは、日本文化や食のイタリア人サポーター数人が、「福島の科学的に安全とされている食品を自分では口にできるが、友人に積極的に勧めようとは思わない」と、ぼくにこっそりと語った瞬間だ。
表立っては決して言わないセリフである。しかし近しい関係があり、イタリア語の会話だと、こうした本音が出てくる。
このカンフェランスの後に関係者や参加者にインタビューした内容は、昨年の今頃、ほぼ日刊イトイ新聞に「イタリアで、福島は。」という連載で書いた。
本音を知るのは難しい。ただ本音を知っただけでは不十分で、それと上手く距離をとることが知恵の使いどころだ、と感じた。
米国大統領選に話を戻せば、記事をそれなりに読み、米国人の友人の意見を聞いても、生活者としての感覚の不足が「分かる」に至る道の遠さを感じさせる。やはり、その国に住んで色々な階層の人と世間話をして初めて分かる、と腹の底から思えるものだ。
そう、世間話じゃないといけない。相手を身構えさせるインタビューではだめだ。だから記事になっている「米国民の街中の感想」はイマイチ信用ができない。
ただ、あまりに自分の良心に忠実とばかりに、すべてが100%分からないと分かったことにしないのは、それはそれで褒められたものではない。いくつかの事実の関係が分かれば全体像に接近できた、と思ってよい。
専門外や自分の経験以外のことを「こういう理解でいける」と確信をもつ術は必要だ。
しかしながら、その術が何にでも通用するわけではない。
例えば、選挙動向の記事によくみるが、「肌で感じる」「空気を感じる」という表現がけっこうあぶない。
数万人の観客を集めたスタジアムでスポーツの試合を観戦し、人々の熱狂度合いを「肌で感じる」ことはできる。が、3億2千万人の社会を「肌で感じる」のは並の実力と立場では叶えない。いわんや、公の場で発言する人は要注意である。
自分なりの経験で類推を重ねて全体像を描き、それに基づいて行動することが推奨されるのは、ある目的をもったなかでの、あるサイズの話である。
新しい市場にある事業プランをもって進出するに、十分な情報がなくても「分かったことにする」のである。これが通じるのは、自らの行動は状況判断にしたがって、調整を試みることができるからだ。
米国の選挙権がない、米国に住んでいない人間が米国の政治社会を判断することとはまるっきり違う話である。
これら二つの次元を混同してはいけない。(安西洋之)
【プロフィル】安西洋之(あんざい ひろゆき)
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