ウー・タンマウンの葬儀は2013年8月15日に行われた。遺体はそのまま、レンガとモルタルで作られたグーと呼ばれる墓(手前左)に棺ごと納められた(筆者撮影)【拡大】
面積が異なるのは、水田の地力や村からの距離が異なるからであるが、他の村人の事例をみると、子供の能力や結婚相手によっても面積が異なるようである。娘に与えなかったのは、夫が左官で安定した収入があるとの理由からだった。そして死亡直前の3回目の調査時には、さらに4人の息子に1人当たり1.5~2エーカーの水田を分け与えていた。
この26年間に購入した土地も加えて、彼の手元に残った土地は屋敷地と8エーカーの水田である。これらは、同居して彼と彼の妻の面倒をみながら、村の中から妻を迎えて3人の子持ちとなった末の息子に引き継がれた。長女は50歳を過ぎて独身で、いまも同居しているが、結婚しないかぎり、この家に住み続けるであろう。
ウー・タンマウンの屋敷地にはいつも牛がたくさんいた。村有数の牛持ちであった。世紀の変わり目くらいまでは、役牛1頭と1エーカーの水田の価格がほぼ同じだったので、20頭も牛のいる彼の世帯は大地主と同義であった。
この牛たちも農地の多い者には1頭、少ない者には2頭と息子たちに分け与えられた。娘たちには、農地や牛の代わりに、貴金属や宝石を贈与した。ビルマ仏教徒慣習法は、男女を問わず同等の相続権を子供たちに保証するが、相続の対象となる財産は農地だけではないので、このようなことも起こり得る。例えば、彼の弟のウー・タンアウンは、長男に農地、次男に耕運機、長女に店、次女には屋敷と家という具合に分与した。
わずかばかりの農地を分与されたウー・タンマウンの息子たちは、これだけではとても生計を立ててはいけないので、妻が相続した農地がある者はそれを加え、ない者はさらに買い増して農業を続けた。農地や牛を処分して、耕運機賃貸業を始めた者や、パヤー(寺院)の職員に転職した者もいた。四男は12年まで5年間村長を務めた。