隋の煬帝といえば、希代の暴君として知られている。奢侈(しゃし)を好み、残酷な刑を復活させたりした。だが半面で、華北と江南を結ぶ大運河の建設や科挙制度の創設も行った。果たして暴君だったのかどうか。その真相が墓の出土によって、次第に明らかになりつつある。
昨年3月、揚州の西湖鎮曹荘で不動産開発の工事中に2つの墓が発見された。特に1号墓からは、墓誌と多数の価値の高い副葬品が発掘された。これらの出土品から、この墓は煬帝のものではないかということになり、考古学会に一大センセーションを巻き起こした。
専門家の間からは、様々な疑問も出された。帝王の陵墓としてはあまりに規模が小さく、貧相ではないか? なぜ「墓」と呼ばれ、「帝陵」と名づけられていないか? なぜ当時の都である長安(今の西安)と離れた揚州に葬られたのか?
だが、11月に考古学専門家が現地に集まり、厳密に検証した結果、やはり煬帝の墓であることに間違いないという結論に達した。今年4月半ばからは期間3カ月だけの特別出土展が揚州の博物館で開かれている。たまたま6月に揚州を訪問する機会があったので、「これは絶好のチャンス」と思って、時間を割いてのぞいてみた。