この「直売方式」は、他の特産品にも生かされた。藩内で産出された砂鉄を活用し、3本歯で使いやすい鍬(くわ)を開発・生産したが、これを大消費地の江戸に運び込んだ。大火が多かった江戸には鉄釘の需要が多く、これも売り出した。同藩の江戸屋敷などには、こうした特産品を保管する専用の蔵も設けていた。
これだけではない。商品価値を高めるため、ブランド化も進めた。たばこや柚餅子など藩の特産品には「備中」という名前を冠し、他藩の商品との差別化を図った。とくに「備中鍬」はベストセラーとなり、藩の財政を大いに潤した。
さらに特産品の生産・販売を一手に引き受ける「撫育方」という専門部門を設置した。方谷は稼いだ資金で船を買い入れ、物流事業まで手がけている。山間に位置する小藩の改革を託された方谷の目線はあくまで高かった。
こうして短期間で財政を再建した備中松山藩は幕府から評価され、藩主の板倉勝静(かつきよ)は老中に抜擢された。徳川家茂や最後の将軍、慶喜に仕えた勝静の政治顧問となった方谷は、大政奉還上奏書の草案も起案したとされる。
最後まで藩と幕府を支えた方谷は、明治政府から要職で迎えたいとの申し出を固辞し、地元で教育者として生涯を終えた。明治の表舞台に登場しなかった方谷の功績は、激動の歴史の中に埋もれた。
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方谷から数えて6代目の直系子孫で、現役の財務省キャリアである野島透さん(55)は「方谷は斬新な改革に取り組んだが、『至誠惻怛(そくだつ)』という真心と慈しむ精神を何より重んじた。これは現代の改革でも共有すべき基本理念といえる」と指摘する。