昨年9月、食をテーマにしたミラノ万博開催中、福島の食の安全を議論するカンフェランスを企画実施した。この企画を提案する必要性を痛感したのは、日本文化や食のイタリア人サポーター数人が、「福島の科学的に安全とされている食品を自分では口にできるが、友人に積極的に勧めようとは思わない」と、ぼくにこっそりと語った瞬間だ。
表立っては決して言わないセリフである。しかし近しい関係があり、イタリア語の会話だと、こうした本音が出てくる。
このカンフェランスの後に関係者や参加者にインタビューした内容は、昨年の今頃、ほぼ日刊イトイ新聞に「イタリアで、福島は。」という連載で書いた。
本音を知るのは難しい。ただ本音を知っただけでは不十分で、それと上手く距離をとることが知恵の使いどころだ、と感じた。
米国大統領選に話を戻せば、記事をそれなりに読み、米国人の友人の意見を聞いても、生活者としての感覚の不足が「分かる」に至る道の遠さを感じさせる。やはり、その国に住んで色々な階層の人と世間話をして初めて分かる、と腹の底から思えるものだ。
そう、世間話じゃないといけない。相手を身構えさせるインタビューではだめだ。だから記事になっている「米国民の街中の感想」はイマイチ信用ができない。
ただ、あまりに自分の良心に忠実とばかりに、すべてが100%分からないと分かったことにしないのは、それはそれで褒められたものではない。いくつかの事実の関係が分かれば全体像に接近できた、と思ってよい。
専門外や自分の経験以外のことを「こういう理解でいける」と確信をもつ術は必要だ。