海外情勢

人種差別撤廃、埴原正直に学べ 排日移民法に抵抗した駐米大使

 戦前に米国が日本人移民を排除した排日移民法の成立を阻止しようとした山梨県南アルプス市出身の駐米大使、埴原正直(はにはら・まさなお、1876~1934年)のことはあまり知られていない。白人警官による黒人男性暴行死事件で米国の人種差別問題がクローズアップされる中、埴原を在野の立場で研究している山梨交通社長、雨宮正英さん(61)は「埴原に学ぶことはあるはずだ」と語る。(渡辺浩)

 「友好」前面に

 米国には19世紀末から日本人移民が増えていたが、日露戦争(1904~05年)で日本がロシアを破った後、白人による支配が黄色人種によって脅かされるのではないかという黄禍論(こうかろん)が広がった。06年にカリフォルニア市は日本人移民の子供を公立学校から締め出した。

 翌年サンフランシスコで反日暴動が起こり、日米紳士協定が結ばれて、日本は移民を自主的に制限する代わり米国は日本人移民を排斥しないと取り決めたが、事態は収まらなかった。

 国際連盟ができるにあたって19年、日本は規約に人種差別撤廃条項を入れるよう提案したが、議長国の米国に葬られた。24年に排日移民法が成立し、日本人の移民は禁止された。日本人排斥は41年の日米開戦の遠因となったとされている。

 埴原は、人種差別撤廃条項提案の際は外務省の政務局長として関与。排日移民法の際は駐米大使として成立を阻止しようとした。雨宮さんによると、米国の政官界に食い込み、「差別で問題は解決しない」と粘り強く主張した。「闘う」のではなく、あくまで「日米友好」を前面に出したという。

 忘れられた外交官

 ところが、米側に宛てた書簡の文言が問題とされた。排日移民法が成立すれば「重大な結果」を招くという表現が、武力行使を意味する恫喝(どうかつ)だと取られ、議会は成立に一気に傾いたとされてきた。

 埴原は成立を阻止できなかった詰め腹を切らされる形で帰国。2年半後に退官した。雨宮さんによると、「忘れられた外交官」となった埴原に関する資料は日本より米国に多く残っているという。

 近年、排日移民法が成立したのは「重大な結果」の文言とは関係なかったという指摘も出ている。神戸大の簑原俊洋教授はそうした研究を評価されて昨年、国家基本問題研究所(櫻井よしこ理事長)の日本研究賞奨励賞を受賞した。

 根底に人道主義

 雨宮さんは「埴原は現代風の人種平等思想の持ち主ではなく、あくまで外交官として国益を追求した」としつつも、「根底に人道主義があることは間違いない」とみている。外務次官時代の1920年、ロシア革命下のシベリアに取り残されたポーランド人孤児の救出に関わっているからだ。

 ユダヤ人への「命のビザ」で知られる杉原千畝(ちうね)が外務省に入ったのはその直後で、「埴原に影響を受けたことは十分想像できる」と分析する。

 今の米国の状況について雨宮さんは「黒人差別と戦前の日本人排斥を同列に論じることはできない」としながらも、「友好を前提として、とことん話し合うという埴原の姿勢に学ぶべきことは多いはずだ」と強調する。

 【埴原正直(はにはら・まさなお)】 明治9年8月25日、山梨県源村(現・南アルプス市)生まれ。東京専門学校(現・早大)卒。東洋経済新報社を経て31年に外務省に入り、サンフランシスコ総領事、政務局長などを経て、大正8年に次官。第一次世界大戦後のワシントン会議全権委員。11年に駐米大使。昭和9年12月20日に58歳で死去。

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