専欄

司馬遷がいま生きていたら、今の香港をどのように評価するだろうか

 ステイホームは読書のチャンスでもある。意を決して、かねて読みたいと思っていた司馬遷の「史記」にチャレンジした。前半は読むのに辛抱が必要だったが、後半の列伝に入ってから、俄然(がぜん)面白くなってきた。(拓殖大学名誉教授・藤村幸義)

 列伝の書き出しの部分で司馬遷は、単純な善悪によって人々が成功するかどうかは分からない、と世の中の理不尽さを嘆いている。いくら仁徳を積み、行状がいさぎよくても、餓死したり若死にしたりするものがいる。一方で、日々罪なき者を殺しても、何の天罰もなく天寿を全うするものもいる、というわけである。

 世の中を斜めからみているせいか、司馬遷の人物評価はあくまでも冷静だ。各節の最後の段落は「太史公曰く」という言葉で始まり、司馬遷自身が自分の独自の評価を下している。歴史上に名を残した人物でも、「残酷で人間味に欠いた」などとばっさり切り捨てていて、実に小気味よい。

 史記を題材にしたドラマや映画は数多い。最近見たドラマでは、「天命の子~趙氏孤児」が印象に残っている。春秋時代に、ある医者が皆殺しにされた一族の唯一の生き残りをひそかに育て、復讐(ふくしゅう)を果たさせる話である。ハイライトは、この医者が自分の子供と生き残りの子供のどちらかを選択せざるを得なくなったときに、自分の子供を楼上から投げ捨ててしまう場面だ。

 史記の中でも、この逸話は詳しく書かれているが、時代のヒーローとして賛美するのではなく、最後は自殺してしまう医者に同情すら寄せている。

 6月25日(旧暦の5月5日)は端午の節句で、楚の国の政治家だった詩人・屈原(くつげん)をしのぶ。この日が近づいてくると、各メディアは屈原の代表的な詩である「離騒」の一説、『路漫漫其修遠兮、吾将上下而求索(修行の道は長くて遠く、果てしないが、私は紆余(うよ)曲折を経て真理の探究をしていく)』などをしばしば引用する。

 だが、司馬遷は将来に絶望して、長江に身を投じて死んでしまう屈原に対して、彼ほどの才能があれば、他の国で認められたはずなのに、どうしてあのような最期を招いてしまったか、と突き放している。

 そんな司馬遷が今の時代に生きていたら、最近の香港の騒ぎなどをどのように評価するだろうか。単純な善悪によって人々が成功するかどうかは分からない、と例によって嘆くのだろうか。

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