ニュースカテゴリ:企業
自動車
三輪EV「エレクトライク」に注ぐ情熱 売れないわけがない…夢は世界制覇
更新
5月22~24日にパシフィコ横浜で開催された「人とくるまのテクノロジー展」に出展した三輪EV「エレクトライク」と開発した日本エレクトライクの松波登社長
20世紀半ばに一世を風靡(ふうび)しながら、今ではすっかり見かけなくなった三輪自動車。その復活に電気自動車(EV)で懸けるベンチャー精神旺盛な経営者がいる。挑戦は一度失敗したものの、還暦を迎えた2008年10月に安全で廉価な三輪EVの製造・販売を目指す日本エレクトライク(川崎市中原区)を設立した松波登(64)だ。小回りがきいて安全、経済性にも優れる近距離輸送手段として将来性を信じて疑わない。それから4年半、満を持して開発した三輪EV「エレクトライク」の受注活動を始めた。夢は世界制覇だ。
松波の三輪自動車への思い入れは長く深い。「高校時代にダイハツ工業の三輪車『ミゼット』に乗って以来の三輪車オタク」と笑う。
三輪車が廃れていったのは、「1人乗り・(二輪車と同じ)バーハンドル・ドアなし」から「前2人乗り・丸ハンドル・ドア付き」に変えたことで、1人乗車時のバランスが悪くなり横転事故が続出したからだ。つまり、ひとめぼれした初期のミゼットのような運転席が中央にあるバランスのよい三輪車なら日本でも再び売れると考えた。
そんな三輪車に出合えた。40歳のときだ。父親が設立したガス検知器メーカー、東科精機(同)の2代目社長としてタイに出張したとき、ミゼットによく似た三輪車「サムロ」が街中を走っていた。かつての日本の光景がよみがえった。
早速、サムロの輸入販売会社サムロ・ジャパンを立ち上げたが、品質が悪く日本上陸はかなわなかった。同社は今、日本ヴューテックと名前を変えて、トラックの巻き込み事故を防ぐ後方視認システムを商品化し、成長した。
三輪車の復活に向け、輸入販売という最初の試みは失敗に終わったが、それでも夢を捨てることはなかった。しかもEVという時代の要請に応える格好で再チャレンジが始まった。経営する東科精機、日本ヴューテックが安定的に収益を生み出せるようになり、「(夢の実現に向かって)好きなことをやれる」環境になったことも大きい。
二輪車の小回りと経済性、四輪車の積載量をあわせもつ三輪車は、郵便配達や宅配便といった軽便な輸送手段に打って付けだ。EVなので静かで排ガスもまき散らさず、環境に優しい。「三輪EVが売れないわけがないし、使わざるを得なくなる」との揺るぎない信念を持つ。
環境性能に加え、二輪車と四輪車の長所を集めた効率性、「三輪車は横転する」というイメージを払拭する安全性向上、EVの概念を打破する価格の安さに注力して開発を進めた。
役に立ったのが学生時代から培ってきた“松波人脈”。松波は若いときラリードライバーとして活躍、1973年にはトヨタ自動車のラリードライバーとして参戦したJMS全日本ラリー選手権で第3位の結果を残した。母校の東海大学に加え、ラリー仲間のネットワークが夢の実現に一役も二役も買っている。
日本エレクトライク設立以前の05~07年に東海大学と連携。成果として、左右に曲がるときの不安定な操縦性を補正する装置「アクティブホイールコントローラー」を開発。後輪を2つのモーターで独立駆動させることで、カーブもバランスを崩さずにスムーズに曲がれるようにした。最小回転半径は2.9メートルと小回りも抜群だ。
開発戦略として打ち出した安全性向上は実現した。残るは価格。「100万円を切る低価格」に挑むことになった。
高いハードルを越えるには、高い技術力が必要だが、無名のベンチャーに力を貸す技術者を集めるのは簡単ではない。にもかかわらず、日産自動車でEV開発プロジェクトリーダーなどを務めた千葉一雄を取締役技術部長として迎え入れることができ、トヨタ自動車やトヨタ車体、市光工業出身者も役員に名を連ねる。万全の布陣を整えることができた。
「クルマ好き・レース好き・(機械いじりが好きな)メカ好き」という優秀な若手エンジニアも加わった。今も現役のラリードライバーとして過酷なレースを楽しむ松波登が積んだ経験と知恵をフォローする。
こうして高密度なリチウムイオン電池を搭載しながら軽量なシャシー(車台)を使うことで車体を軽くし、電池も小型化。充電も楽で走行距離も伸び、家庭用の100ボルト電源で6時間充電すれば約40キロ走る。
コスト低減に向け、もう一つのネットワークも構築した。部品調達のグローバル展開だ。シャシーはインド最大の二輪車メーカーのバジャジオート製三輪車を活用。同社はバジャジ財閥の中核企業で、1986年に川崎重工業と技術提携。高度な生産ラインから三輪車だけで月間4万5000台を生産、このうち5割をインドネシアなど東南アジアに輸出している。またリチウムイオン電池は中国製、バッテリーマネジメントシステムはデンマーク製を採用。「買いたくなる三輪EV」に改造して販売することで製造原価を抑える。
松波にとって待ちに待った発表のときがやってきた。4月16日、受注開始の記者発表と試乗会をJR南武線高架下の工場(川崎市中原区)で開いた。試乗した記者たちは小回りの良さに驚いたが、課題も指摘した。提示した価格が200万円だったからだ。
松波も分かっており、「宅配業界から『採算が合うことを実証してくれ』と言われた。1充電で40キロ走れ、荷物は150キロまで載せることができる。小回り性能も分かってくれたので、100万円以下を実現できれば間違いなく売れる」と実用化に自信を深めた。
2013年度(年間販売10台)、14年度(同100台)を試験期間と位置づけ、15年度から本格展開し、年間1200台の販売を目指す。このころには100万円まで価格を引き下げる考えだ。
そのための戦略を披露した。量産による調達コストの低減もあるが、「不安定な操縦性を補正する装置のアクティブホイールコントローラーで国際特許を取る。そしてバジャジに技術供与し生産を委託する」という。
年産100台までなら試作・開発を中心に手掛ける自社工場で対応できるが、量産体制に入ると生産委託に頼らざるを得ない。車を生産できる設備さえあれば送り込まれた部品を組み立てるだけで済むので、協力してくれる企業をグローバルに探すという。
一方、バジャジ社長にも面会を求めていく。「とにかく乗ってみてほしい。バジャジもEVに興味を持っているようなので乗れば良さが分かる」と強気だ。そう語る松波の手にはインドネシアから取材に来た記者が書いた新聞が握られていた。「インドネシアにはバジャジ製タクシーが走っており、バジャジに情報が届くはず」と秋波を送る。
四輪車の普及で三輪車は消えていく運命だったが、操縦性能の向上による安全面での不安払拭とEV化により近距離輸送手段として息を吹き返す機会がやってきた。松波は「とにかく安く提供できればうまくいかないわけがない。世界的にも必要なクルマになる」と強調する。
数年後には「日本エレクトライクは(工場をもたない)ファブレス企業のベンチャーとして成功する。オンリーワンでいける」と目を輝かせる。(敬称略)