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【九州の礎を築いた群像 安川電機編(6)敬一郎と第五郎】「財産は国家のために使い天恵に報いよ」 孫文を支援、東洋近代化に尽力
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安川敬一郎が私財を投じて創設した明治専門学校(安川電機提供) 技術開発に邁進(まいしん)し、産業発展に貢献する-。高邁な理念で安川電機製作所(現安川電機)を創業した安川敬一郎(1849~1934)とその5男、第五郎(1886~1976)。彼らは本業以外にもさまざまな形で国家に貢献した。
その精神性を具現化したといえるのが、敬一郎が明治42年、戸畑町(現北九州市戸畑区)に開設した明治専門学校だろう。
「日露戦争により、私の資産は当時の炭鉱経営資金にしては過剰となった。よって本業に必要のない資産すべてを投じ、わが国の早急の需要に応えるべく専門教育機関を設立した。既倒の事業を救ってくれた天恵に報いたいとの微衷(真心)が出た」
敬一郎は大正7年に70歳で実業界を引退する際、「子孫に遺す」と題した文章にこう記している。
敬一郎が、佐賀の乱で戦死した兄の炭鉱業を継ぎ巨万の富を築いたのは、日露戦争(1904~1905)による軍需景気がきっかけだった。全国で石炭成金が続々と誕生し、多くは贅沢三昧の暮らしをしたが、敬一郎は違った。
「財は私すべきではない。国家公益のために活用すべし」と唱え、明治専門学校を設立した。投じた資金は330万円(現在の貨幣価値で38億円)に上る。
技術者養成には、実験施設などが必要で、技術を体得させるにはカネも時間も要する。東京専門学校(現早稲田大学)を創設した元首相の大隈重信(1838~1922)は「学校は文系にしないと工業系は大変ですよ」と助言したが、敬一郎は一向に意に介さなかったという。
敬一郎は、元東京帝国大総長の山川健次郎(1854~1931)を総裁に招き、その後も私財を投じて教育の充実に努めた。第五郎も自ら教鞭を執った。
その甲斐あって明治専門学校は私学の雄として「西の明専、東の早稲田」と呼ばれるようになり、東洋レーヨン(現・東レ)元社長の田代茂樹(1890~1981)ら優秀な技術者を数多く輩出した。
残念ながら第1次世界大戦後の不況や九州製鋼への投資失敗などで資金不足に陥り、敬一郎は大正10年、明治専門学校を国に寄付した。これが現在の九州工業大学となった。
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西欧がアジアへの侵略を強めていた時代。敬一郎は日本が植民地になりかねないという危機感を持ち「富国強兵、殖産興業」に強い思いを抱いていた。
中国の革命家、孫文(1866~1925)らを支援したのも「日本の独立維持には中国や朝鮮など東アジア全体の近代化が必要だ」と考えたからだった。
清朝打倒を掲げた孫文は1895(明治28)年、最初の武装蜂起に失敗後、日本へ逃亡し、政治団体の玄洋社総帥の頭山満(1855~1944)らの支援を受けながら東京で暮らした。福岡藩士に生まれ、藩校修猷館で学んだ敬一郎も玄洋社社員であり、頭山を通じて孫文を知り、多額の革命資金を提供したとされる。
詳細はベールに包まれているが、孫文は再び中国に戻って革命を主導し、1912(明治45)年、中華民国を樹立した。1913(大正2)年3月、一転英雄として来日した孫文は、戸畑の安川邸に1泊した。明治専門学校も訪ね、学生らを前にこう演説した。
「諸氏が当校に在学しているのは日本の進歩のためだけでなく、東洋の科学の進歩のためだ。諸氏は東洋発展のため大きな責任を負っているのです」
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敬一郎は官営八幡製鉄所の実現にも一役買った。
政府が日清戦争(1894~1895)で手に入れた賠償金3億円を元手に官営製鉄所建造計画を決めた当初、呉(広島県)、門司(北九州市門司区)などが有力候補だった。八幡は筑豊炭田に近いが、洞海湾の水深が浅かったため選外だった。
そこで敬一郎は洞海湾に面する若松港を浚渫(しゅんせつ)し、水深を6メートル以上、掘り下げた。さらに藩校修猷館の同窓である金子堅太郎(1853~1942)が、農商務次官として候補地選定の責任者だったことから説得を試みた。政府は明治30年、八幡での官営製鉄所建設を決定し、34年に操業を始めた。そう考えると八幡・戸畑の繁栄の礎は敬一郎が築いたと言っても過言ではない。
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第五郎はそんな父、敬一郎の生き様に大きな影響を受けた。
第五郎は大正4年、29歳で安川電機製作所を設立したが、17年連続で赤字を続けながら「利潤は目的ではない。公益が優先だ」と言い続けた。
そしてようやく事業が軌道に乗った昭和17年2月、突然社長の座を降りた。戦時下の経済統制団体の1つ、電気機械統制会の初代会長に担がれたからだった。この2カ月前には、敬一郎の次男の松本健次郎(1870~1963)も石炭統制会会長に就任している。
安川電機は全国的にみれば中堅メーカーにすぎなかった。にもかかわらずお鉢が回ってきたのは日立製作所や東芝など大手が固辞したからだ。お人好しの第五郎は、商工次官の椎名悦三郎(1898~1979)=後に外相、内閣官房長官など歴任=に「あなたしかいない」と直接指名され、断り切れなかったという。
だが、引き受けた以上は全力を尽くすのが信条。統制会発足直前、陸軍省に呼び出された第五郎はこう断言した。
「今は一身上のことを考えるべき時ではない。赤紙をもらったつもりで会長就任を承諾したのです」
にもかかわらず陸海軍は統制会発足後も、それぞれ勝手に軍需品を発注し、統制会をないがしろにした。第五郎は軍部に臆することなく「やり方に疑問があります」と度々異議を申し立てた。それでも陸海軍はやり方を改めず「君のような町人と話しても時間の無駄だ」と言い放つ将校もいたが、第五郎は「国家のために職責を果たそう」と部下たちを鼓舞し続けた。
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お人好しだが、芯が強く、虚栄を嫌う。そんな第五郎の人柄は次第に世間に知れ渡り、終戦後も公職の依頼が次々に舞い込んだ。第五郎はやはり断り切れず「これも社会奉仕だ」と引き受けた。
昭和21年2月、商工相の小笠原三九郎(1885~1967)に説得され、石炭庁長官に就任した。同年9月、玄洋社に名を連ねたことを理由に公職追放となるが、26年8月に解除されると、日銀政策委員、九州電力会長、九州・山口経済団体連合会(現九州経済連合会)初代会長など肩書は続々と増えていった。
もっとも重責だったのが、東京五輪組織委員会会長だった。組織委は、前任の会長と事務総長の内紛が拡大し、ついに両者とも辞任する事態となった。大会運営の責任者が不在となり、五輪開催すら危ぶまれる中、五輪担当相の川島正次郎(1890~1970)は「混乱を丸く収められるのは安川さんしかいない」と白羽の矢を立てた。
会長就任は38年2月。第五郎は組織委総会でこうあいさつした。
「こんな大行事を無事に済ませる自信などあろうはずがないが、就任した以上は最善の努力を尽くす。もし失敗したとしたら責任は私にはなく、人選したあなた方にあります」
東京五輪は予定通り39年10月に開催され、大成功を収めた。新幹線や高速道路などの整備も急速に進み、日本のめざましい復興を世界に知らしめた。
中学修猷館時代からの旧友で、自由党総裁、副総理など歴任した緒方竹虎(1888~1956)は第五郎をこう評した。
「おそらく安川君は一生を通じて、ぜひ何になりたいと考えたことはいっぺんもない。何か難しい仕事が起こった場合(周囲が)彼を引き出そうとする。安川君も頼まれると断れない人で引き受けたのだろう」
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いつしか「担がれ屋」と称されるようになった第五郎だが、唯一前のめりになった事案がある。原子力発電の導入だった。
「核兵器から軍事の覆いをはぎとり、平和の技術に適合させるための術を知る人々の手に渡す」
1953(昭和28)年12月の国連総会。アイゼンハワー米大統領が原子力の平和利用を宣言すると、各国の電力会社は原子力発電導入に動き出した。
「これこそ資源に乏しい日本の未来を担うエネルギーだ」。こう直感した第五郎は、国内外の文献を集めて独学を始めた。
昭和29年12月、研究者や電力会社幹部ら有志が「原子力発電資料調査会」を結成すると、第五郎は会長に就任した。当時68歳だったが、毎月の勉強会も欠かさず出席した。最先端の科学技術を前に、東京帝国大電気工学科卒の技術者としての血が騒いだのだろう。
第五郎は財界随一の「原子力通」となった。31年1月、政府は原子力政策を担う原子力委員会を発足させ、同年6月には特殊法人日本原子力研究所(現日本原子力研究開発機構)を設立。第五郎に初代理事長就任を要請した。
同研究所は茨城県東海村に沸騰水型実験炉(出力50キロワット)を建設し、昭和32年8月27日午前5時23分に臨界を達成、日本に初めて「原子の火」が灯った。
「この寒村にて数多くの困難を乗り越え、この成果に到達した関係者の苦労と努力に深い感謝と尊敬の念を新たにしております…」
同年9月18日に開かれた祝賀会で第五郎は約700人の出席者を前に笑顔でこう語り、頭を下げた。
2カ月後の11月には商業炉の建設・発電を担う日本原子力発電株式会社(日本原電)が設立された。第五郎は研究所理事長を辞任し、初代社長に就任した。各電力会社社員の寄り合い所帯となる日本原電で組織をまとめることができるのは、無私無欲の第五郎しかいなかったのだ。
ある高名な経済評論家は「バカ者でなければこんな役目は引き受けない」と辛辣に批判したが、第五郎は「1人くらいバカがいなくては新事業は興せない」と開き直った。ちなみに、日本初の商業炉である東海原発建造に際し、安川電機製の電気機械は1台も採用しなかった。
昭和51年6月25日、第五郎は東京・田園調布の自宅で静かに息を引き取った。享年90。葬儀委員長を務めた第五郎の甥で安川電機会長の安川寛(1903~1999)は弔辞でこう述べた。
「私たちは、あなたが私心を捨てて尽くされた誠(まこと)が天に通じたことを心から喜び、安川電機を超えて、そびえる大樹を創業者に仰ぐことにひそかな誇りを抱いておりました…」
安川電機は今年7月で創業99年を迎えるが、敬一郎、第五郎の志は、社員たちに脈々と引き継がれている。(敬称略)