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【未来への伝言】古森重隆・富士フイルムホールディングス会長兼CEO(中)
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富士フイルムヨーロッパ社長時代、古森重隆氏(中央)は欧州の地でもリーダーシップを発揮した=1990年代後半 ■できる社員は「会社思い」
◆「第二の創業」決意
《デジタル化の波が押し寄せる中、富士フイルムホールディングスの社長に就任したのは2000年。同社の経営改革が本格化した》
「一番に考えたのが『とにかくこの会社を生き残らせなければならない。ただし、単に生き残ればいいわけではなく、21世紀を通じてエクセレントカンパニーであり続ける』ということだ。写真フィルム市場の縮小に合わせ、企業の規模を小さくすることによって何とか生き延びるのではなく、日本を代表する一流企業であり続けたいという、強烈な思いがあった。まさに『第二の創業』に取り組むという強い決意だった」
《古森重隆氏は『写真文化を守る』という使命を打ち出す一方、写真関連分野の大規模な構造改革も断行した》
「写真とは人間にとって大切な文化であるからこそ、安定的に利益を確保していくことができる事業として写真フィルム事業を成り立たせるために、構造改革でダウンサイジングを図ろうとした。リストラはやらないで済むのなら、やりたくないに決まっている。しかし、優先順位として、富士フイルムを生き残らせなくてはならない、という強い使命感や責任感があった」
「大きな改革を行う際、大事なのはどのタイミングで、どれくらいのスピードで、どのくらいのスケールでやるかを意識することだ。写真分野の構造改革も、タイミングを逸していれば、その後にやってきたリーマン・ショックや歴史的な円高にのみ込まれてしまい、会社として大変なことになっていたかもしれない」
《フィルム事業に代わる新たな成長事業を見つける一方、研究開発への投資を積極的に続けた》
「メーカーの場合は、自分たちが持っている技術と全く無関係な領域に進出してもうまくいかない。既存事業で培ってきた技術を『棚卸し』し、その技術を生かせる領域を探り出していくことが大切。つまりシーズとニーズのすり合わせが重要になる」
◆6つの重点事業分野
「2001年ごろから研究開発の役員らとともに、縦軸を現在の技術と新しい技術、横軸を現在の市場(事業)と新しい市場とする4象限のマトリックスを書いて、検討を行った。そして医薬品や化粧品、高機能材料などの分野で技術の応用が可能という結論になり、6つの重点事業分野を策定した」
《古森氏は社員に対し、「自分の頭で考え抜くこと」の重要性を説く》
「私が社長になった理由の一つは『人一倍、会社思いだった』ことだ。会社思いの社員は貴重で、自分の会社であるというオーナーシップを持って仕事に取り組んでいる人は、他人の意見をうのみにしない。当社の社員には『社外のコンサルタントや弁護士に頼りすぎるな』といつも言っている。他人の意見を謙虚に聞くのは必要だが、最後は自分の頭で判断することが何よりも大事だ」
《初めての海外勤務は56歳と遅かった。しかし、現地の外国人たちに物おじすることはなかった》
「1996年に富士フイルムヨーロッパの社長としてドイツに赴任した。その年齢になって初の海外勤務は気が重かったが、部下に仕事を任せるのではなく、何事にもガチンコ勝負をした。欧州市場は当時、首位のコダックにシェアで2倍近くの差を開けられ、万年2位に甘んじていた。会社を戦う組織に立て直そうと自ら引っ張っていった」
「製品の差別化を行う一方で、『割安品の二流メーカー』というイメージから脱却するために、ブランド戦略を練り直した。そうやって結局、23%だったカラーフィルムのシェアを30%近くまで伸ばすことに成功し、コダックに追いついていった」
「後で聞いたが、現地のドイツ人スタッフは、徹底的に相互コミュニケーションを行い、高い目標達成を次々と突きつけていく私のことを、日本から本当のサムライがやってきた、『スーパー日本人』だと言っていたという。困難を乗り越えるごとに胆力、思考力、決断力といった実力が蓄えられていった」(小島清利)
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【プロフィル】古森重隆
こもり・しげたか 東大卒。1963年富士写真フイルム(現富士フイルムホールディングス)入社。富士フイルムヨーロッパ社長などを経て、2000年社長、03年最高経営責任者(CEO)を兼務。12年6月から現職。旧満州生まれ。