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家業をアウトドア用品大手に変えた2代目社長 スノーピーク山井氏、起死回生の一手となったのは?

ニュースカテゴリ:企業の中小企業

家業をアウトドア用品大手に変えた2代目社長 スノーピーク山井氏、起死回生の一手となったのは?

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山井太・スノーピーク社長(中央)と、村田育生・村田作戦社長(後列左)、大栗芙実子・OKURICOMPANY社長(同右)=新潟県三条市  東証マザーズに上場を果たした高級アウトドア用品メーカー、スノーピークの社長、山井太氏。父親の会社を継いでから一進一退の連続だったが、飛躍へと導いた起死回生策は社員のひとことがきっかけだった。新潟県三条市の同社本社でのOKURICOMPANYの大栗芙実子社長、村田育生・村田作戦社長との鼎談の詳報をお伝えする。

■入社動機は「アウトドアを仕掛けるため」

 大栗社長 上場、おめでとうございます。金物問屋からスタートした会社が、世界的なアウトドアブランドとなった足跡は、成長のヒントがあふれていると思います。

 山井社長 ありがとうございます。スノーピークは父が金物問屋として創業しました。ロッククライミングが大好きでほぼ毎週、夜行で出かけていく登山ヘンタイだった(笑い)。私は父に「お前は、危ないから」と登山を禁止されていましたが、登山の伝記を読むのが好きで、山へのあこがれもありました。自然との関わり方として登山とは別のアウトドアの楽しみ方を考えていました。

 大栗社長 アウトドアへの執着には背景がありそうです。

 山井社長 高校までここ、燕三条で育ちまして、その後明治大学に入って東京に出ました。東京に住むようになって強い違和感を覚えたことがあったんです。当時、つまり1980年代半ばの日本は経済的に成功していたはずなのに、生活はストレスが多くちっとも豊かじゃない。同時に街中を見て感じた違和感もあって、「パジェロ」とか「デリカ」とか、本来アウトドアを楽しむためのSUVというクルマがいっぱい走っているのに、アウトドアを楽しむ人はいない。変な時代だな、と感じたわけです。

 大栗社長 それがヒントに?

 山井社長 そうですね。いなか育ちですから、自然の中に身を置いてストレスを発散したい、という自然への涸渇感も強かったです。私は自然に身を委ねれば心が豊かになるということを知っていますから、アウトドアが受け入れられる確信がありました。またSUVは登録台数の10%ほどありましたから、SUVにキャンプ用品を載せる新しいライフスタイルは、絶対にいい。それを仕掛けたいと思ってスノーピークに入社したんです。

■父親の社長が提案をことごとく却下

 大栗社長 日本の「オートキャンプ」というジャンルを開拓されたのも山井社長です。新ジャンルの開拓につながる仕掛けの着眼点、感覚をどう養われたのかが気になります。

 山井社長 小さいころから、最初に仕掛ける、ということが好きでした。自分が何かをすることで、世の中が動くとか、何かを具現化するとか、そういうのが好きなんですね。100を150にするよりも、0を1にすることが好きなんです。

 村田氏 実はさっきの話は、その続きが面白い。スノーピークに入社してから、自分の好きなアウドドアの仕掛けを始めようとお父さまに提案しても、なかなか作らせてもらえなかったんですよ。

 山井社長 たぶん帝王教育なのでしょう。息子だからあえて厳しくしようとした、ということと、リスクマネジメントをたたきこもうと思ったのと、その2つなのでしょう。いずれにせよ、私がリクエストしたものがことごとく父に否決されました。商社にいたときに企画営業のような仕事をしていたので、スノーピークでもそれができると思い込んでいたんです。それで入社して10個の製品の企画をたてて、父にリクエストしたら、10個とも同じことを言われて、否決された。

 大栗社長 何と言われましたか?

 山井社長 「お前それ、いくつ売れるんだ」って。それで「分かんない。作ってみないと」って答えた。また「作るのにいくらかかるんだ」と聞かれたのでそれは分かっていたのでたとえば「300万円かかる」と言うと、「じゃ、ダメだな」と。

 村田氏 どれだけ売れるのかが分からなかったらダメと?

 山井社長 禅問答みたいな話ですけどね。でもまあ、それを10回繰り返したらさすがに私も頭に来たんですが、そこで「待てよ、なぜ10回も同じことを言ったのだろう」と考えたんです。そこでひらめいたことがありました。当時、SUVでのキャンプを広めたい、という私の考え方を支持してくれる業界の人がいたので、その人たちに、私の企画した製品を発注してもらえるよう、あらかじめ頼んだわけです。

■年商5億円が5倍に、ところが一転…

 大栗社長 どんなふうに頼んだんですか?

 山井社長 製品のスケッチを持っていって「これ、120個、注文いれてくれないっすか?」とお願いしました。そしたら「スケッチだけで乱暴だ」って言いながらも私の頼みに応じてくれた。その製品を作るための金型に100万円かかるので、その分を回収できるようにしたんです。

 大栗社長 事前発注ですね。

 山井社長 それでその発注書をこっち(左のポケット)に入れて、こっち(右のポケット)には辞表を入れて、父にかけあったんです。「これを作ってくれ」と。そしたらまた「お前、いくら売れるんだ」と聞いてきた。「来たぞ」と思って注文書をたたきつけて「もうこれだけ売れてます。金型の100万円はペイします」って言ったら、今度は「何やってるんだ、早くやれ」ってなったんです。結局、それから1年間で100アイテムぐらいつくりました。すべて予注を入れました。

 村田氏 そのときの会社の規模はどれぐらいでしたか?

 山井社長 私が入社したのが1986年で、そのころは年商5億円ほどでした。1988年にオートキャンプを立ち上げて、5年後に25億円ぐらいになった。1回目のピークが1993年で25・5億円。オートキャンプがブームだったんです。

 村田氏 そこから急落したんですよね。

 山井社長 6年間下がり続けました。14・5億円まで。加熱していたオートキャンプブームがしぼんだことが原因ですね。あとはオートキャンプを支えていた団塊世代の退出も響きました。

 村田氏 そのころアウトドアショップでは、何を売っていたんでしょう?

 山井社長 アウトドアの業界って、なにかしら流行があるんです。私たちが学生のころは「モンクレール」のダウンジャケットがブームだったし。売れるものを集めて店先に置けば、お店としてはビジネスになる。一方で、流行の移り変わりが激しいので、オートキャンプブームが去ったあとは私たちが営業に行っても店主から「何しに来たの? もう来なくていいよ」みたいな言われ方をしましたよ。

 村田氏 で、どうした?(笑い)

 山井社長 実際、1999年の売上高が14・5億円で。経常利益が4000万円。そのままでしたらあと1期で赤字転落でしたね。ありとあらゆることをしました。製品開発もたくさんしていたし。それでも売り上げが下げ止まらなくて。それと、ピークの93年を迎える前の、92年に父が亡くなりました。その後を継いで母が社長に就任したんですが、93年にピークをつけたあと、94、95と売上が下落。96年に母の後を継いで私が社長になりました。随分とタフな社長デビューでした。

■突き刺さったユーザーの率直な意見

 大栗社長 そこからですね

 山井社長 考えられる選択肢は2つあったんです。ひとつが、取り扱い先を専門店以外の、量販店に広げることです。量販店はどこも、専門店ブランドを欲しがっていたので、口を大きくあけて待っていたようなところはありました。実際、スノーピーク以外のメーカーはほぼすべて量販マーケットに向かいました。

 大栗社長 もうひとつは?

 山井社長 未開の地である海外のハイエンド市場の開拓です。結局、そちらを選択することにしました。ただし海外に出て戦うには武器がいる。そこで、マイクロストーブやマイクロランタンなどの燃焼器具の開発に入りました。初めてだったので1年では開発できないだろうと思い、開発期間を3年と設定したんですが、結局5年かかってしまった。

 大栗社長 その5年の間は?

 山井社長 相変わらず新製品を躍起になって開発していて、実際、出せば売れるんです。でも既存製品が売れなくなる。差し引きでマイナスみたいな感じで。当社は基本的に脳天気な人間が多いんですが、さすがにその時は落ち込んで、会社の存在意義は本当にあるのだろうかとか、会議の場で真剣に悩みました。その会議で、ある社員が発言した。われわれに存在理由があるのか分からないけど、ユーザーさんの笑顔をみると頑張れるって。そうだ、その通り。何はともあれ、ユーザーさんと向き合って語り合うことで何かヒントが見つかるかもしれないと考え、ユーザーさんとのキャンプのイベント「スノーピークウェイ」を開催することにしたんです。1998年の暮れです。

 大栗社長 直接、ユーザーさんの声を聞くキャンプイベントですね。成果はありましたか?

 山井社長 大きかったんですね。転換点になりました。「カンブリア宮殿」(テレビ東京)でも取り上げられたんですけれど、スノーピークのユーザーさんが30組ぐらい集まって語り合ったんです。そこでユーザーさんから出てきたのが、価格が高いということ。「社長、ホント高いよ」って。そのころの当社のテントは8万円でした。他社の9800円の8倍、1万9800円の4倍。でも私としては、他社の製品は1回使えば壊れておしまいじゃないか、って思いがあったんですけど、熱狂的なスノーピークファンのみなさんから、口をそろえて高いと言われましたから、それは大きいです。

 大栗社長 価格への不満ですね。

■「脱・問屋取引」を決めた理由

 山井社長 もうひとつ出てきたのが、店の品ぞろえが悪いということ。当時は当社製品を取り扱っている店が1000店ほどあったのですが、多くは問屋さん経由で扱ってもらっていました。そうしたら、そのキャンプイベントに、静岡県から参加されているユーザーさんが、県内にある4つの取扱店のいずれも品ぞろえが悪いと訴えてきたんです。「全部まわったのに、欲しいものがどこにも置いてなかったんだよ。お店、見たことあんの、社長」って。

 大栗社長 ズバリ言われましたね。

 山井社長 いろいろ考えをめぐらせてはいましたが、問屋との取引を見直す決断をしたのは、そのときでした。

 大栗社長 問屋さんと取引するメリットも断ち切ることになりますね。

 山井社長 80年代後半のころは、オートキャンプがブームだったので、作ったものを一斉に売ってくれたほうが手っ取り早かったんですね。

 村田氏 しかも企画製造メーカーだから、販売の懸念をせずに済むところもありますね。作るマインドと、売るマインドとは随分、違いますから。

■当社は世界で最初のものを作る会社

 山井社長 当社は、世界で最初のもの、まさにオリジナルを作る会社です。ということはつまり、店に置いておいても、消費者が何に使うかわからないことがある。「それ、なんなの?」みたいな。店で「こう使うんですよ」と使ってみせて、説明して初めて良さが伝わることがあるわけです。そこでまず、問屋さんに退場いただき、問屋さんに支払っていた手数料を削減することで、8万円のテントが5万9800円にできた。さらに小売店への直接販売に切り替え、店の品ぞろえや店頭での説明にも目を行き届かせる。こうした取り組みによってユーザーさんから指摘された2つの問題を解決できたんです。

 大栗社長 問屋との取引を断るのは、大変だったのでは?

 山井社長 キツいことも言われましたよ。

 村田氏 どんな?

 山井社長 営業マンもそうですけど、私も言われましたよ。「お父さんの時代から40年もかわいがってやっていて、それは感謝知らずじゃねえか」って。でも私たちにとっての真の顧客はユーザーさんであり、そのユーザーさんを幸せにするために必要なことだと考えて、何を言われてもキッパリと取引をやめました。

 大栗社長 ありとあらゆることをした、とおっしゃいましたが、そこで譲らなかったことはなんでしょう?

 山井社長 製品の品質、デザイン、機能性についてこだわることや、ハイエンドの愛好者向けの永久保証のコンセプトも変えなかったですね。結局お客さんの笑顔を向くことを止めなかった、ということだと思います。それと、もうひとつ感じていることがあります。

 大栗社長 それは?

 山井社長 スノーピークという会社が燕三条になければ、こうなってはいないだろうということです。スノーピークは燕三条の地域性とか歴史とか生産技術の集積だとか、そういった資産を、自分たちのアイデアでアウトドアというライフスタイルに転換している会社なんです。厚さ2・5ミリのダッチオーブンもここの歴史があってできたと思っています。アメリカ製の厚さ7~8ミリのダッチオーブンに比べるとずっと軽いんです。土地の記憶にあったビジネスをすることも、大事なのではないかな、と感じています。

 大栗社長 多くの中小企業が悩みを抱えていますが、地元の資産をみつめ、自分の大切にしているものを見つめ続けることから、次の道が開ける可能性があります。スノーピークも、だからこそ、テントが1張り9800円や1万9800円が相場だった時代に、品質とデザインにこだわった16万8000円のテントを発売したし、製品の品質への自信から「永久保証」も打ち出した。多くの企業が持つべき視点ですね。

 山井社長 本当のビジネスは、消費者に「本当の価値」を提供することです。ある会社がオリジナルの価値ある製品を作ったら、同業他社はそれをまねしておこぼれをもらう、ということを目指すのではなく、違うコンセプトの価値を提供すべきです。消費者や社会のために仕事をする以上、本当に、消費者や社会のためになるには、企業はオリジナルであれ、ということだと考えています。

 【対談終了後の村田氏の見方】 山井社長は先代が1958年に創業した金物問屋を、世界的に有名なアウトドア用品会社に事業転換させた。引き継いだときは限られた経営資源しかなかったが、燕三条という金属加工技術の集積地特性を生かして、トップブランド製品を生み出している。持たなくてもアイデア、感性と信念で作り出した好事例。常に妥協せず、進化も忘れないアウトドア用品のアップルだ。

       ◇

 山井 太氏(やまい・とおる)プロフィル 明治大商学部卒。外資系商社勤務を経て86年、父親が創業した登山用品の製造、販売のヤマコウに入社。オートキャンプ用品の開発に着手し、アウトドアブランドとしてのちいを確立。96年の社長就任と同時に社名をスノーピークに変更。熱烈なアウトドア愛好家で毎年30泊から60泊をキャンプで過ごす。新潟県三条市出身。55歳。

 村田 育生氏(むらた・いくお)プロフィル 村田作戦代表取締役。カナダ、ビショップス大卒業。日本LCA、ベンチャー・リンク、リンク・インベストメントなどを経て、ガリバーインターナショナルでは副社長としてハイスピードの成長に尽力。2009年に退任し現職。ネクステージ監査役、スノーピーク取締役、システムロケーション顧問、プレミアファイナンス顧問も務める。56歳。静岡県出身。

 大栗 芙実子氏(おおくり・ふみこ)プロフィル OKURICOMPANY代表取締役、ヒューマネイションズ代表取締役。東京音大卒。音楽・演出事業で独立し、現在は企業や商品・サービスの魅力を引き出して付加価値を高めるブランド力底上げの戦略構築からアウトプットまでをトータルでデザインするコンサルタント事業を手掛ける。2011年から現職。33歳。東京都出身。

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