世界で戦う覚悟決めたMRJ 「やってみろ」“血判状”で始まった第一歩
更新だが、当時社長だった西岡喬(現相談役)の腰は重かった。西岡には、かつて米国で手掛けたビジネスジェット機「MU-300」で、1800億円の赤字を出し撤退した苦い記憶がある。
03年春。渋る西岡に、戸田は一通の手紙を送った。和紙に毛筆で「自らの責任で、最後までやり遂げる」との旨を記し、署名・朱印を押した“血判状”だ。
「やってみろ」
ついに西岡もこう決断した。MRJの開発は、こうして動き始めた。
世界で戦う機体に
経産省のプロジェクトに名乗りを上げた三菱重工は、富士重工業と日本航空機開発協会と共同で、03年5月から研究開発に乗り出した。
機体の軽量化や新エンジンで燃費を2割程度削減し、システムの合理化やデジタル機器で操縦を容易にする-。当初の開発コンセプトは優れた経済性や環境適合性というMRJのセールスポイントとも共通する。
戸田は「世界で戦うために、航空会社が魅力的だと感じる機体にすることを重視した」と振り返る。
