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【軍事情勢】ソ連の「手先」になった36人
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思いの外(ほこ)ホコリを被(かぶ)っていない捜査資料と取材ノートを18年経(た)った今、読み返した。同盟国の在米大使館盗聴を暴露したCIA(米中央情報局)元職員の身柄をめぐり、米国とロシアの狡猾(こうかつ)な駆け引きを報じるニュースに触発されたからだ。
左上に《部外秘》とある資料はラストボロフ事件を《総括》した、600頁以上の分厚い冊子で、外務省職員や県教育長、弁護士、政党や大手メディアの幹部ら、ソ連の《手先》となった36人の裏付け捜査記録などが収まる。ノートはA4サイズ3冊とB5が2冊。表紙には平成7(1995)年春から夏にかけての月日が記されている。当時、筆者が担当した産経新聞の大型企画・戦後史開封の幾つかの連載の内、戦後のスパイ事件を綴(つづ)った取材記録だった。
事件は、在日ソ連代表部の二等書記官を装ったMVD(内務省)諜報員ユーリー・ラストボロフ中佐(1921年生まれ)が粛清を恐れ、米軍情報機関の手引きで昭和29(1954)年、米国に亡命。日本での衝撃的諜報活動を暴露し発覚に至る。
36人の内、消息をたどれなかった一部を除き、当人か、当人が亡くなっていれば最も近い身内に話を聴いて回った。詳細な捜査資料のお陰(かげ)だった。例えば、代表部《本館二階見取図》には、各部屋の用途をはじめ《暗号室に通じる廊下》には《鋼鉄製ドアー(覗(のぞ)き穴あり)》、《暗号室、機関銃六丁備付》などと注釈が付けられ、高い捜査精度がうかがえる。
以下、印象に残る関係者(仮名)の証言を、平成7年末現在の年齢で再現する。
元大日本帝國(こく)陸軍大佐・花田正太郎(故人)の二女(64)と三女(56)の話は、まるで映画だった。昭和24年12月-
「小学校から帰ると、消息不明の父が、ロシア人の着るモコモコの外套を着て、GHQ(連合国軍総司令部)のジープで突然帰宅していた」(三女)
花田は終戦後、ソ連に抑留されていた。だが、完全な平穏が戻るのはまだ先だった。25年5月、日系二世の男が花田家を訪れる。男と出て行った花田は、2カ月近くも戻らなかった。目隠しされ、グルグルと都内を回されどこかに連れて行かれたとかで、帰ってきたときには憔悴(しょうすい)しきっていた。その後、またも見知らぬ男が訪れる。三女が続ける。
「梅雨時で雨がザンザン降る日曜の夜。玄関のブザーが鳴るので出ると、目の前にレインコートを着た、赤ら顔でザンバラ髪の大男が、全身グッショリ濡れて立っていた。悲鳴をあげた。カタコトの日本語で『静かにしろ。花田はいるか』と言うや、土足で上がってきた」
ここからは二女の記憶に。
「母が『土足は止めてください』と言っても、コートのポケットから拳銃をちらつかせながら『花田を出せ』『どこに行っているのか』しか言わない。家中を探していないとわかると『来たことは誰にも喋(しゃべ)るな』と言って帰った」
「後に、花田の監禁場所はGHQの諜報組織キャノン機関本部が在る東京・池之端の旧岩崎邸だとわかる」(三女)。大男はMVD諜報員だった。説明が必要だ。
GHQを率いたダグラス・マッカーサー米陸軍元帥(1880~1964年)が《北海道占領という執拗(しつよう)な要求を拒否し『ソ連の思想に理解のある日本政府』樹立ができなかった。このためソ連は、総合的で広範囲なスパイ網設置を重視。目的は手先を日本の宮中、政府、財界、政党に潜入させることであった》
情報の収集対象は、日本における《憲法改正についての国民の考え方/再軍備について政府、政党の動き/保安隊(自衛隊の前身)の装備/日ソ平和条約締結についての要求事項、特に領土問題/米軍基地計画》や《米軍が原子爆弾を極東配備する計画の有無》など。
間諜(ちょう)に仕立てるに当たり最も多いのが、シベリアに抑留し零下40度の中、過酷な使役を強いた日本の軍人に、帰国をエサに勧誘するやり方。誓約書と、支度金支給と引き換(か)えに領収証を書かされた。著名な建築家・森幹雄(84)の場合「一旦、引き揚げ部隊に入れたが『シラミを消毒したか』と戻された。それは口実で『日本のスパイだったことはわかっている。お前は帰れない』と脅された」。森は陸軍の露語要員だった。
斯(か)くして、キャノン機関やGHQの防諜組織CICとソ連諜報組織は、間諜か否かの識別や任務掌握など、熾(し)烈な諜報戦を繰り広げた。
ソ連側の接触は慎重を極めた。一流大学理工学部出身で日本電信電話公社(NTTの前身)に勤めていた元陸軍技術少尉・前島和夫(76)は、固定通信のプロであった軍歴が災いした。
昭和23年7月の復員後、ソ連の指令通りに東京・築地の本願寺の門柱に白チョークで「帰」と書いた。翌日、「帰」が丸で囲まれておりソ連側が帰国を確認したと知る。しかし、日が経つにつれ、誓約を破っても危険はなかろうと自らに言い聞かせ、1回目の連絡をしなかったところで、CICやキャノン機関に察知され、数回にわたり尋(じん)問された。尋問では「いきなり露製拳銃を置いて『覚えないか』と。ソ連との関わりを言えという脅迫だった。『ソ連の指令通りに動け』と指示され、綿密な打ち合わせをした」。二重スパイである。
9月15日午後3時、築地の聖路加病院前で、新聞を右手に持ち、行ったり来たりしていると、二人連れの外国人が来て「この病院は爆撃を受けなかったのですか」と尋(たず)ねてきた。前島は「私は満州に行っていたので知りません」と符牒(ふちょう)=合言葉を返した。以来、毎月1回、歌舞伎座前で会うことになる。
しばらくするとソ連側は「2~3回、歌舞伎座前を往復してください。監視している人がいないか見届けたい」と言い出す。以来、連絡が途絶えた。思い当たる節があった。
「陸軍の下士官軍服にマントを羽織った日本人が、勤め先に来た。『最近、GHQから連絡はありましたか』と聴かれ、GHQ関係者だと思って『時々』と答えてしまった」
次回は《手先》たちの末路に触れる。(政治部専門委員 野口裕之/SANKEI EXPRESS)