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【軍事情勢】マッカーサー→鯨→人間魚雷/長門→原爆実験

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【軍事情勢】マッカーサー→鯨→人間魚雷/長門→原爆実験

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 終戦半月後の昭和20(1945)年8月30日、神奈川県・厚木飛行場に降り立った聯(れん)合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥(1880~1964年)は帝都・東京には入らず、横浜市内のホテル・ニューグランドに12泊する。初の食卓には鯨肉ステーキがあった、との回想録が残る。不思議な縁はここから始まった、と思っている。

 滞在中《目玉焼き事件》が起こる。元帥は朝食に「2つ目玉の目玉焼き」「煎り卵」を命じたが、朝食には2品とも供されなかった。昼を過ぎ、ようやく「1つ目玉の目玉焼き」だけが運ばれた。元帥が料理人に質(ただ)すと「八方手を尽くし、ようやく卵が一つ手に入りました」との答え。実証された逸話ではないが、元帥は日本の食糧事情を理解していた。

 食糧難で捕鯨拡大

 この年は明治38(1905)年以来の大凶作だった。冷害・風水害のダメージを、生産設備の軍需転用による肥料や、徴兵による労働力の、幾重もの不足が一層悲惨にした。冷害の原因ともなった親潮の異常現象で、イワシやサバが沿岸を遠く離れた。

 そこに漁船や労働力、燃料の不足が加わり漁獲高は激減した。復員兵・引き揚げ者650万人も祖国帰還を始めた。大蔵大臣は「餓死者1000万人の可能性」まで公言。元帥がハリー・トルーマン米大統領(1884~1972年)に「食料を送るのか(日本人暴動に備えた)援軍を送るのか」と迫る深刻な事態だった。

 降伏調印よりわずか2カ月後の昭和20年11月、聯合国軍総司令部=GHQは、日本が加盟していなかった国際捕鯨取締協定(現国際捕鯨取締条約の前身)の全面順守を前提に、鯨肉を日本国民に広く供給するためマッカーサー・ライン内での捕鯨を許可した。マッカーサー・ラインとは20年9月にGHQが出した日本漁船が操業できる海域を規制した区画で、25年までに少しずつ拡大していった。

 ところが、もともと捕鯨基地のあった小笠原諸島の沿岸はライン外で寄港できないから、海上基地=母船は不可欠だった。だのに、日本の捕鯨母船は特設運送船に、捕鯨船=キャッチャーボートも爆雷・捕獲網を積み潜水艦狩りを担う特設駆潜艇・捕獲網艇や、機雷を除去する特設掃海艇として、それぞれ徴用され、多くは沈められた。GHQに最初に捕鯨を申請し許可された大洋漁業(現マルハニチロ水産)は、船探しに奔走した。

 明けて21年1月、横浜港で修理していた捕鯨船の乗組員が、海面まで滑り台のような下りスロープを施した甲板「スリップウェーのついた大日本帝國(こく)海軍の艦艇がいる」と連絡してきた。欣喜雀躍(きんきじゃくやく)して第二復員省(海軍省の後身)に借用の話を持ち込む。と、「何でも貸してやる」と示された残存艦艇リストの筆頭に《戦艦 長門/3万9000トン/8万2000馬力/ダメージ中破》とあり、仰天する。

 母船候補から標的艦に

 長門は戦時中、大和・武蔵に次ぐ主力艦として温存され、終戦まで稼働可能だった唯一の戦艦であった。捕鯨母船は通常1~2万トンだから、名誉と巨艦に過ぎる-と丁重に断り「スリップウェーを施した艦艇」を説明すると、第一号型輸送艦第19号=公試(臨戦態勢時)排水量1800トン=だと判明する。

 一号型は敵制海空権下でも島嶼(とうしょ)への強行輸送を可能ならしめるべく高速重武装化された輸送艦で、搭載の大型上陸用舟艇を短時間で着水させるため、後部甲板が海面まで続く下り坂になっており、捕獲鯨を引き揚げるのに好都合だった。戦争末期には、この坂を使い特攻兵器・回天=人間魚雷が発進した。艦長以下全乗組員80人が、艦とともに大洋漁業に貸与された。

 斯(か)くして21年2月より最長23年春まで、生き残った一号型全4艦が、大洋漁業以外の業者にも雇われ捕鯨母船として活躍した。それ以前は全て復員輸送艦として活用されたから、二重の意味で多くの日本国民の命を救ったことになる。4艦の内、19号は英国に、他は米国やソ連、中国に接収され、捕鯨母船としての任務を終える。

 接収といえば、前述の長門は米国に接収された。終戦直前に米航空母艦4隻より離艦した艦上機の猛攻で中破したままの長門。その痛々しい姿を21年7月、太平洋中西部マーシャル諸島ビキニ環礁に見る。米国による核実験の標的艦となっていた。だが、1回目の空中爆発実験では爆心予定地がずれたとはいえほぼ無傷。爆心地近くに置かれた2回目の水中爆発実験に至っては、事前に艦首に穴を空けられ、機雷が艦体に仕掛けられていたともいわれるが、4日間も海上にその姿を保った。

 看取った者なし

 爆心地に最も近かった米戦艦が瞬時に轟(ごう)沈、長門とほぼ同じ距離に位置した米正規空母は7時間後に沈没しており、長門は標的艦の中でひときわ光を放った。

 核爆発の特性や艦種の違いなどもあり、単純比較は慎むべきだろう。ただ、かつて日本が委任統治した海域で、日本の造艦技術の粋と意地を見せつけた、どうしてもそこに心が動く。実際、米実験チームの一員もこう唸(うな)ったという。

 「海の古強者(ふるつわもの)は死せず」

 ところで、海上自衛隊も受け継ぐが、帝國海軍は艦内に神棚を設(しつら)え「船霊(ふねだま)様」をお祀(まつ)りする。長門の艦内神社は長門国(ながとのくに、山口県西部)一宮(いちのみや)で、軍事と海上交通の神として崇敬される住吉神社(山口県下関市)より勧請(かんじょう)した。

 長門国一宮を分祀(ぶんし)した長門が、捕鯨母船候補だったことに縁を感じる。旧長門国に属する長門市は古式捕鯨の、下関市は近代捕鯨の、それぞれ代表的基地。弥生時代の地元遺跡でも鯨の骨を使った器具が出土する。詩人の金子みすゞ(1903~30年)の生まれた、今は長門市に編入された村もかつて捕鯨で成り立った。この地方には鯨に戒名を付け、位牌(いはい)や鯨墓を作り、回向(えこう)する習わしがある。この鯨への慈しみはみすゞの詩作の原点となり《鯨法会(ほうえ)》《鯨捕り》といった作品を生む。

 不思議なことに、実験3日目の深夜か4日目の未明に沈んだ長門26年の最期を、誰も看取ってはいない。沈みゆく姿を見られたくなかったのだろうか…。みすゞが26歳で服毒自殺せず、生きて鯨と長門の縁を知ったなら、物悲しい詩歌をこの世に残しただろうか…。(政治部専門委員 野口裕之/SANKEI EXPRESS

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