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S飯店とかつて暮らしたマンションと窓 長塚圭史

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S飯店とかつて暮らしたマンションと窓 長塚圭史

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こうした光景は7階のその室からは見えるはずもなかったか(長塚圭史さん撮影)  【続・灰色の記憶覚書】

 場所も味も当時のまま

 東京・千駄ケ谷にS飯店という中華料理店があって、小龍包が食べたくなるとそこへ行く。実はこの店には小学生の頃から通っていて、というのは、S飯店はマンションの1階部分で営業しており、そのマンションはかつて私が小学2年生頃から高校1年頃まで暮らしていたという経緯があるからだ。おまけにこのS飯店で働く中国人の方々が我が家の隣の室(へや)へ引っ越してきたこともあって、つまり隣人という関係でもあったわけで、道理で我が家は、通常やってはいないテークアウトとか、ちょっとした出前なんていう特別なお願いもできたのかと思う。

 マンションの入り口はすっかり改装されてしまったし、1階部分にあったいくつかのブティック、コンビニなどもまるっきり入れ替わってしまったのにもかかわらず、このS飯店だけは昔と全く変わらずにそのまんま残っていることに驚かされる。また幸いにして味も保たれている。なので私にとっては勿論、小龍包の美味しい店、であると同時に、子供の頃の記憶に出合う再会の店でもあるのだ。具体的に店員さんが幼少期の私を覚えているということではない(積極的に言い出したこともない)。ただ、匂い、店内の照明、黒い石テーブルの感触、勿論、味。以前と変わらぬ全てが私の記憶を刺激する。

 そのマンションの7階に住んでいた私は、それまで神宮前の寂れた商店街にある古アパートの3階暮らしだったため、とにかく急に視界が広がったように感じた。大通り沿いへ越して来たということもあったのだろうけれど、地域の小さなコミュニティーの中でひっそり暮らしていたところから一気に都会へ放り込まれる感覚だろうか。慣れずに元いた商店街の方へばかり足を向ける時期が長く続いた。

 隣室に店員らの「異国」

 13階建てのマンションの7階である。まずどれだけの人間がこの建物の中に暮らしているのか判然としない薄気味悪さ。それまでは隣人と言えばハッキリと知り合いで、それは姉の同級生家族であったり、猫と暮らしているカップルであったりしたのだけれど(その古アパートは1つの階に3世帯しか住んでいなかった)、母が不在のときなど、そうした隣家に遊びに行くことも自然で、家の前の狭い路地の植え込みや小さな空き地で虫などと戯れていれば、誰かしら時間が許せばかまって相手をしてくれたりしていた、そういうものが私にとって隣人というか、暮らしというものだった。

 ところが同じ階でさえどんな人間が暮らしているかわからない。ましてや、S飯店さんには申し訳ないのだけれど、少年の私にとって突然大勢で隣室に引っ越して来る中国人は奇怪なばかり、廊下にはいつも香辛料の匂いが漂うようになり、母は何だか仲良くやっているようだし、お店でご飯を食べるときには美味しいから良いのだけれど、とにかく一歩向こうは大陸のような、異国の人があまりにも間近で暮らしているということもまた、路地世界ではない、開けた大通り世界での落ち着かなさを加速させた。

 奥の3畳間で聞いた花火

 また極端に窓の少ない室だった。殆ど北向きの西面にだけベランダと小さな窓があってそれだけだった。けれどベランダはあくまでベランダで、洗濯などで使うばかり。また窓のある部屋は物置のような3畳間だった。私は外を眺めるのが好きだったので、マンションの裏にひっそりとある、まるで陽の当たらない、しかしそれなりに立派な、鯉が泳ぐ池つきの庭を覗(のぞ)き込んだりしていた。

 花火の季節になると、高層マンションが立ち並ぶ一角ゆえ、打ち上げた方角とは反対の側の、この3畳間の窓から花火の音が聞こえてきた。反響して跳ね返ってきた音だ。そうと知っていても私はまず「花火だ!」と奥の3畳間へ走ってゆき、でまかせの反響音だけ楽しんで、「こっちよこっち」と母に呼ばれて、玄関を出た共用の廊下の窓から顔を覗かせ、向かいのマンションの陰から微(かす)かに見え隠れする綺麗な火花と赤い硝煙を楽しんだ。

 そういえば、この共用廊下の窓から私は初めて知らない人の死体を見た。飛び降り自殺をした女の人の死体で、飛び散った血よりも真っ白な肌が印象的だった。知らない人の死体が見えるところへ移り住んだのだと、その頃から、少しずつこの大通り世界で生きる覚悟を決めたのかもしれないし、それはやっぱり現在の私が作り出した改竄(かいざん)の物語なのかもしれない。(演出家 長塚圭史/SANKEI EXPRESS

 ■ながつか・けいし 1975年5月9日、東京生まれ。96年、演劇プロデュースユニット「阿佐ヶ谷スパイダース」を結成。ロンドン留学を経て、新プロジェクト「葛河思潮社」を立ち上げた。今春は「あかいくらやみ~天狗党幻譚~」の作・演出を手がけ、出演も。12月8~29日、東京・Bunkamuraシアターコクーンでシェークスピアの四大悲劇の一つ「マクベス」を演出する。

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