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「暮しの手帖」という貴重な良心 花森安治が貫いた手づくりの編集制作力 松岡正剛
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SANKEI_EXPRESS__2013(平成25)年11月24日付(13面)
右の写真を見て、これが44年前の雑誌の目次の一部だとわかる人はいないだろう。それほど斬新だ。しかし、そうなのだ。「暮しの手帖」1969年冬号なのだ。中身はいまでも説得力をもつ。たとえば見出しになっている「天ぷら油とサラダ油」については、編集部が実験検証したところ、「作ってみても食べてみても二つの油に差はない」「まんまとメーカーの手にのっていました」というふうにレポートされている。
花森安治が「暮しの手帖」を創刊したのは1948年だった。すでに大橋鎮子(しずこ)とともに衣裳研究所で『スタイルブック』を創刊していたが、このコンビで女たちの「暮らしの知恵」の役立つ雑誌をつくることにした。そんな雑誌はなかったから、なにもかもが手作りになった。
編集方針は、世の中に流通している常識を鵜呑みにしない、説明はわかりやすくする、商品の特性は必ず検証する、妥協はしない、大事なことは繰り返す、というもの。とくに商品テストはスタッフ全員で立ち向かった。そのため企業広告をいっさい受け付けなかった。当然、編集制作にお金はかけられない。みんなが知恵を出し、みんなが手を出した。見出し文字や表紙の絵は、死ぬまで花森自身が描いた。
花森は東大の美術史の出身だった。パピリオ化粧品の宣伝部で広告デザインの仕事をし、手書き文字(レタリング)を得意とした。そんな花森が生活者のための雑誌をつくる気になったのは、戦争にかまけた日本人が悔しくてたまらなかったからだ。なぜ、つまらぬ日本になったのか。「一人ひとりが生活を大切にしていなかったからだ」と判断した。「暮らしが貧しいとなげやりになり、別のことで大儲けしたくなるもんだ」とも言っている。
ぼくの父は「文芸春秋」を毎月愛読していた。母は「暮しの手帖」をいつもすみずみまで読んでいた。ぼくの編集感覚にルーツがあるとしたら、両親が信用していたこの2つの雑誌を身近に感じていたことにあるだろうと思う。いまでもこれらを見ると懐かしく、かつ愛着が甦る。それにしても「暮しの手帖」の良心は筋金入りだった。いまだにこれに匹敵する雑誌を、日本はもっていない。
花森の編集制作力は徹底している。新入社員にはカメラを買わせた。大事なものを記録できないかぎり編集などできないという方針だ。料理を見たりしたあとや、会議をしたりしたあとは、そのことを文章に書かせた。どんなこともわかりやすい文章にできないかぎり、編集なんてできないという哲学なのだ。しかし、なんといっても花森が徹底したのは「検証」だった。世の中の商品が暮らしに役にたつのかどうか、結論が出るまでテストし、検証した。そのためにはさまざまな角度から「商品」を見る目が必要だった。これらを通しているうちに、花森はむろん、スタッフ総勢が「世間の虚偽」と「社会の過剰」に気が付いていった。「暮しの手帖」の真骨頂は、そこにある。
昭和43(1968)年、花森は「暮しの手帖」一冊まるごとつぶして「戦争中の暮しの記録」を特集した。戦争時代の生活記録がないことに業を煮やしてきた花森の、乾坤一擲だった。116万部が売れた。翌年、雑誌は創刊百号を迎えたが、花森は旅先で心筋梗塞で倒れた。意を決した花森は「武器を捨てよう」「戦場」「国をまもるということ」「無名戦士の墓」「見よ ぼくらの一銭五厘の旗」などを次々に書いた。本書はそれらをまとめたものである。読売文学賞を受けた。これらのなかで花森が問うたのは「自分と国とのあいだの貸し借りにケリをつける」ということだった。そのうえで戦後日本が町に歩道橋をつけたときに、戦争に代わる過剰を犯したと告発した。
花森は明治末に神戸の貿易商の家に生まれ、田宮虎彦と同級となった神戸の小学校から神戸三中へ、ついで松江高校に入った。ここでのちに「日本読書新聞」編集長となった田所太郎と一緒になった。その読書新聞にいたのが大橋鎮子だったのである。東大では新聞部に入り、ペンに磨きをかけた。花森は生涯オカッパで、しばしばスカートをはいた。そのためゲイや女性にまちがえられたことも少なくなかったそうだが、これは子供時代にタカラヅカに馴染んだせいだという説がある。ほんとうのところは、激しい自由人だったということだろう。この自由人たらんとする感覚は、雑誌編集にはむろん、花森の綴るエッセイの随所にあらわれる。本書はそうした花森イズムが日々のすみずみにまで横溢している。(編集工学研究所所長・イシス編集学校校長 松岡正剛/SANKEI EXPRESS)