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設定がないと生きていかれない 町田康
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(町田康さん撮影)
私は読み狂人。朝から晩まで読んで読んで読みまくり読みに狂いて黄泉の兇刃に倒れたる者。そんな読み狂人の私は一応、人間なのだけれども、そのうえで思うのは、私はこれからどうやって生きていったらよいのだろうか、ということ。
と言うと、「なにを眠たいこと吐かしとんじゃ。働いて銭もうけてメシ食っていくしかないやろ、アホンダラ」と叱正してくれる優しい人が必ず現れるが、そりゃまあ、そうなのだけれども、人として生きる場合、それだけでは済まない部分があるように読み狂人には思えてならない。
それがなにかを一言で言うと設定であると読み狂人は思う。
それはどういうことか。例えば、本郷猛、という人を例にとって言うと、彼は人生の大部分の時間を、ショッカーという組織と闘うことに費やして、随分と疲弊するのだけれども、なぜそんなしんどいことができるかというと、いうまでもなくショッカーが地獄の軍団という設定だからである。
と言うと、「あほらしもない、子供の見るテレビ番組やんけ」と言って歯牙にもかけぬ人が多いと思うが、しかし、本郷猛のような正義とショッカーのような悪が私たちの生きる現実の世界にあるという考えが私たちのなかにがっちりはめ込まれているのは、私たちがなにも考えないまま悪と設定されたものを自動的に憎んでしまうことからも明らかである。
と言うか、そのように考えが嵌まっているからこそ、「仮面ライダー」が作られる訳で、でも、その逆もやはりあって、つまり物語は現実と一体化して、顔面に張り付いてとれない肉付き面のようになってしまっているのである。
だから申し上げたとおり、それがないと人間は生きていかれず、ただただ働いて銭をもうけてメシを食うていくということもできない。なぜなら銭をもうける局面にも、その設定が食い込んでいるからで、もっというと、自然を自然のまま受け入れることも人間はできず、常にそれを設定の枠内に想定し、その前提の中でしか生きていけない。
だったら、それでいいじゃないか。その設定の中で頑張って生きていけばよいではないか、てなものであるが、読み狂人が、これからどうやって生きていったらよいのだろう、と思ってしまうのは、根本の大きな設定はまあ諦めるとして、時代に合わせて少しずつ積み重ねてきた細かな設定に矛盾が生じているような気がするからである。
しかし、そして、設定がないと生きていかれないから、その矛盾をなんとかするためにまた別の角度から設定をする、というのはもっぱら小説家がやってきた仕事である。
それはでも、例えば、ゴア、というのは、「マグマ大使」に出てくる悪い人だが、その設定の矛盾をそのままに、ゴアにはゴアの悲しみがある、みたいなことを描いてお茶を濁し、悪も正義も、悪と正義があると設定したことも笑いものにして優越感に浸る、という退廃的なもので、設定の矛盾はそのまま放置されて、生きる気色の悪さ、甘えた言い方で言うと、生きづらさ、のようなものが人間の中でヌラヌラする。それをなんとかするために、もの凄く乱暴で、単純な設定も一方で作られて、それに狂熱すると楽なので狂熱することもあり、その一方で負債はふくれあがり、債務超過のようなことになっているような感覚もある。
木下古栗の、『金を払うから素手で殴らせてくれないか?』は、とりあえずその矛盾きわまり、これまでの規範を失った地点から書かれ、そして激烈におもしろい。向後、小説はすべてこの地点から書かれるべきである、と読み狂人は思った。作者に言葉についての天賦の才ありとも。
肉付き面を無理矢理にべりべり剥がされると、顔面からダラダラとが流れる。痛い。しかし、いざやってみると痛いことは痛いが、笑うくらい爽快だし、実際に笑ってしまうことだってあるのである。(元パンクロッカーの作家 町田康、写真も/SANKEI EXPRESS)
≪「金を払うから素手で殴らせてくれないか?」(木下古栗著)≫
「失踪した男の行方を、当の男本人が追う」という表題作。失踪した米原正和の行方を、当の米原とともに追うが-。ほか2編を収録したカルト的人気を誇る作家の小説集。講談社、1500円+税。