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ああ、絶対矛盾的自己同一! この9文字に西田幾多郎の禅的思考の真骨頂が息づく 松岡正剛
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【BOOKWARE】編集工学研究所所長、イシス編集学校校長の松岡正剛さん=9月14日、東京都千代田区の「丸善丸の内店内の松丸本舗」(大山実撮影)
日本人なら一度は西田を読みなさいと言いたいところだが、文章は難解だし、最も有名な『善の研究』にして、読み通してその中身をすらすら言える者に、めったに出会えない。脅かすわけではないけれど、それほど西田を読むのには覚悟がいる。
それなのに西田こそは、日本思想の劇的な特徴を言い当てた哲人なのである。ここまでずばりと本質をついた哲学者はいなかった。そう、ぼくは確信できる。ただし、その劇的な特徴をあらわした言葉はなんと「絶対矛盾的自己同一」という、とんでもなくわかりにくい9文字なのである。まるでお題目のようなのだ。
もともと西田幾多郎は金沢で洗心庵を組んでいる雲門玄松という禅師に仕えるつもりの青年だった。ところが自分の資質は修行僧になるよりも哲学をすることに向いていると見きわめて、金沢の四高に入った。そこで西田は生涯の友となる鈴木大拙と出会い、自分の哲学的な思索は禅の方法に沿って貫こうと決心した。
こうして西田の思索が始まるのだが、その中核に据えたかったのは「疑うに疑えないような純粋なもの」とは何かということだった。禅に学べばそれは「無」に近いものなのだろうが、その一言で片付けたくはない。そこでまず「善」を相手に格闘し、次に「自己」とは何かという大問題と格闘した。
途中、次女と五女を亡くし、続いて母と長男の死、子供たちの病気、妻の死が襲ってきた。西田はその悲しみの連続の只中で、ついに自己を「主客がいまだに分かれていない存在」というふうに掴まえて、その依(よ)って立ったる場所そのものを見つめようとした。それが「絶対矛盾的自己同一」というものだったのである。
われわれは、一と多、「ある」と「ない」、自己と他者、そこにいる自分とそれを支えている場所、見るものと見られるものといった、一見すると対立しあうようなものと一緒に生きている。そこからは逃げられない。だとしたら、どんな矛盾をも包含する決意のようなものが必要なのだ。西田はそれを「絶対矛盾的自己同一」という9文字に凝縮させたのだった。
西田哲学はこの9文字に如実にあらわれている。われわれはさまざまな矛盾を抱えるけれど、むしろその矛盾を極みに達せられたとき、そこに矛盾をさえ純粋にする作用というものが生まれるのである。これで、何かがピンときただろうか。ピンときてもこなくとも、われわれは絶対矛盾的自己同一にこそ突っ込むべきではあるまいか。
ここで「善」と呼ばれているのは、善意のことではない。われわれが体験してきたことのすべてをあてはめても、なお純粋になれるような究極の気持ちのことをさす。「善」はそのような純度の高いものだとみなされたのだ。しかしのちに、西田は「善」を「本来の自己意識」というふうに読み替えて、そこには純粋よりも矛盾が跳梁していてもよかったのだと思うようになった。ちなみに西田は、この代表作を書く直前に次女と五女を亡くしていた。
このうち「働くものから見るものへ」「場所」「無の自覚的限定」の3本を、なんとか読んでほしい。西田が「無の禅学」を導きの糸として「主客未分の自己」に向かっていくプロセスが見えてくると思う。とくに自己と無とのあいだに「場所」があらわれるところが肝心だ。IIIに「絶対矛盾的自己同一」が収録されている。ここには「逆対応」という用語も使われていて、自己を「無」や「矛盾」という逆のほうから掴まえてしまうというコツが暗示される。
西田の生涯を随筆・短歌・日記・手紙を辿りながら追いつつ、その思索のあとをじっくり理解させてくれるのに一番の本。人生の悲哀こそ哲学の動機となるもので、他者を受け入れる「席」を用意することこそ哲学の深部に向かうことだということが、しだいに伝わってくる。著者は宗教哲学者で、ついに出会えなかった西田を「いや、ずっと会っていた西田」とみなしたほど、西田哲学とその人生に没入した。ぼくはこの本に救われた。
西田哲学は長らく宗教体験や宗教哲学と結びつけて解説されてきた。むろん西田自身にそのような色彩があるのだが、そのぶん「古めかしい」という印象をもたれてきたことも否めない。本書はそこを現代思想のさまざまなアクシスに照らして、初めて西田哲学をポストモダンな地平に持ち出した。著者は西田の提案する哲学用語を「問題群」という括(くく)りでとらえ、その問題それぞれに現代哲学用語をからませていったのだ。画期的だった。(編集工学研究所所長・イシス編集学校校長 松岡正剛/SANKEI EXPRESS)