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命をめぐるギリギリのせめぎあい キュンチョメ個展「なにかにつながっている」 椹木野衣
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キュンチョメ個展「なにかにつながっている」__「なにかにつながっている」(2014年)=2014年7月15日、東京都新宿区(野村成次撮影)
今年の頭に結果が発表された公募展、第17回岡本太郎現代芸術賞で、みごと一席の「岡本太郎賞」に輝いた新鋭アーティスト・ユニット、キュンチョメ。受賞後、初の個展が新宿眼科画廊で開かれている。いずれも、この展示のための新作ばかりだ。発表に注いだ力の入りようがうかがえる。
とはいえ、美術館と違って画廊の空間は限られている。が、これまでも穴蔵のようなスペースを縫うように展示してきたキュンチョメのこと。入ってすぐの受付からどんつきの事務所への入り口まで、狭い通路も駆使して全体を5つの展示室に区分け。見事にひとつの世界を構築している。
岡本太郎賞受賞作品でも、米が敷き詰められた床を土足で踏ませるなど、一見しては奇を衒(てら)った作風で知られるかれらだが、根底に流れているのは人間の生命力だ。今回の個展でも、全8つを数える作品のうち、東日本大震災の被災地を扱ったものが2点、富士の樹海を辿(たど)ったものが4つ、スカイダイビングで千葉の上空4000メートルからメンバー自身が降下する作品が2つと、いずれも人間の極限状態を主題に据えて制作されている。
もっとも、いま挙げたことからもわかるように、かれらは単純な生命の謳歌(おうか)主義者ではない。まったく反対に、人間の生命が真の意味で発露するのは、堪え難い逆境や負の要素との直面からという強い確信がそこにはある。
以下、彼らが会場に敷いた動線に沿って、その様子を追ってみよう。
最初の小部屋で出会うのは「鯉(こい)のぼり男」だ。子供のころ、端午の節句を祝うための鯉のぼりは、それ自体、生命力の象徴だ。が、現実はどうだろう。風がなければ力なく垂れ下がったままで、雄々しくはためいていることのほうが珍しい。また子供が成長してしまえば、所在さえあやうくなってしまう。
東日本大震災で家が揺さぶられたのをきっかけに、不意に姿を現した古びた鯉のぼりを、かれらは今こそ生き返らせようと、みずから身にまとう。そして、スカイダイビングで、これ以上ありえないくらい風を浴びせ、天空を泳がせるのだ。鯉のぼりという行事にまつわる命懸けの「復興」が、震災からの魂の再生に繋(つな)がる瞬間だろう。
震災でいうと、2つ目の部屋で展示された「無限にずれていく時間」は、より直接的だ。無人の砂浜となった被災地の海岸を、かれらは金属探知機を使い、そこに埋もれた誰かの記憶/物質を探り当てる。そして反応があるたびに掘り起こし、代わりに花を植えるのだ。
東北では現在でも行方の知れぬ者が数多い。遺体の探索はいまなお続いている。キュンチョメは犠牲者が身につけていたかもしれない金属を探し、その場所に一つ一つ鎮魂の痕跡を残していく。
誰でも、身体のどこかに金属を装着しているはずだ。探し出された金属の断片は遺体ではないが、しかしたしかに現世を生きた誰かの命の証しなのだ。
今回の展示の中心をなし、個展のタイトルにもなっている表題作「なにかにつながっている」は、さらに強烈だ。かれらは、「自殺の名所」として知られる富士の樹海に足を踏み入れる。そして、森の奥へと繋がるヒモを偶然見つけたのをきっかけに、未知の相手との「かくれんぼ」を始める。答えの返ってこない「もーいいかい?」を、樹にもたれ何度も繰り返しながら、かれらは奥へ奥へと入っていく。
そしてやがて、「まーだだよ!」という返事の代わりに「なにかにつながっていた」自分たちを見いだすのだ。その顛末(てんまつ)については、3日分の日記の形式をとった「なにかとつながった日」と、樹海で拾った日本酒の紙パックを使って作られたはがき状の「 」であらわされている。とりわけ後者では、伝えられたかもしれない無言の空白として、新たに誰かのもとに届けようとする。行為と現実、加害と被害、命あるものと命なきものとが「もういいかい?」の言葉だけを頼りに結び合い、ほつれあい、切り離される。これは命をめぐるギリギリのせめぎあいだ。
これらを見たあとで、私たちは出口に辿り着く。そこには、被災地で記録され、もう誰もいなくなった各家のドアが投影されている。耳を澄ますと、ノックの音が聞こえる。かれらが、そこにいたはずの人たちに向けて、「もういいかい?」と同じように一軒ずつ、声を掛けているのだ。私たちはその布を開けて、ようやく外の世界に出る。そして、この個展に入ったときとは少しだけ…しかしどこか決定的に違って見える現実と再会するのだ。(多摩美術大学教授 椹木野衣(さわらぎ・のい)/SANKEI EXPRESS)