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宮崎監督引退会見 「本気」「ナウシカ続編ない」「文化人ではない」

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宮崎監督引退会見 「本気」「ナウシカ続編ない」「文化人ではない」

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スタジオジブリ・宮崎駿監督引退記者会見会見する宮崎駿監督=東京・吉祥寺(撮影:今井正人)  公開中のアニメーション映画「風立ちぬ」を最後に引退することが明らかになった宮崎駿監督(72)は6日午後2時から、東京都内で記者会見を開いた。会見にはスタジオジブリの鈴木敏夫プロデューサー(65)と星野康二社長(57)も出席。会場には海外11の国・地域を含む国内外のメディア関係者約600人が詰めかけた。会見の詳報は以下の通り。

 〈午後2時に会見は始まった。宮崎監督と鈴木プロデューサーが、報道陣からカメラの激しいフラッシュを浴びつつ登壇。黒いシャツに薄いグレーのジャケットを着た宮崎監督は淡々とした表情で口を開いた〉

 宮崎「質問をしていただければ何でもこたえる形で…。一言。ぼくは何度も辞めるといって騒ぎをおこしてきた人間なので、『どうせまただろう』と思われているんですけれど、今回は本気です(笑)。」

 〈会場に笑い声が広がる中、宮崎監督は早々に鈴木プロデューサーにマイクを交代。鈴木プロデューサーは、宮崎監督の盟友、高畑勲監督が製作中の映画「かぐや姫の物語」が予定通り11月23日に公開されることと、来年夏を目指して新作が製作中であることを明らかにした〉

 「アニメーションは世界の秘密をのぞき見ること」

〈会見も終盤。記者の質問は、宮崎監督の政治的発言に踏み込んでいく〉

 --「町工場のおやじ」がジブリの冊子「熱風」で「憲法を変えるのはもってのほか」と発信した。その理由は

 宮崎「『熱風』から取材を受けて、自分の思っていることを率直に話した。もう少し考えてしゃべればいいのですが、でも、訂正するつもりもありません。ただ、それを発信し続けるかというと、僕は文化人じゃない。その範囲でとどめたい。それから、中日新聞で憲法について語ったんです。そうしたら、鈴木さんにネットで脅迫が届くようになった。冗談まじりに『ブスッとやられるかもしれない』なんて話をして。それを聞いて、僕や高畑も発言すれば、的が定まらないだろうと思ったんです(笑)」

 --「風立ちぬ」の中では「10年」がキーワード。これからの10年をどう迎えたいか

 宮崎「僕の尊敬している作家の堀田善衛さんが最晩年、エッセーで旧約聖書について書いたものがある。その中の文章から影響を受けている。10年という時間については、僕は絵の先生から『絵を描く仕事は38歳くらいに限界が来るから気をつけろ』といわれた。僕は18の時から修行を始めたが、監督になる前『アニメーションというのは世界の秘密をのぞき見ることだ。風や人の動きや表情やまなざしや体の筋肉の中に世界の秘密がある。そう思える仕事だ』と分かった。そのとたん、自分の仕事がやるに値する仕事だと思った。それはだんだんややこしくなるんですが、その当時、自分は本当に一生懸命やっていた。これからの10年はあっという間に終わるでしょうね」

 --引退について奥さんの反応は

 宮崎「家内には、『お弁当は今後もよろしくお願いします。まことに申し訳ありませんが』といいました。僕はすっかり外食に向かない人間になった」

 --ベネチアで引退を発表した理由は

 鈴木「『風立ちぬ』の出品要請は直前だった。社内で発表するスケジュールは決まっていたが、外国の友人も多い。ベネチアで発表すれば、一度に発表できると考えた。それだけ」

 --集大成の作品に込めたメッセージは

 宮崎「自分のメッセージを込めて映画は作れない。自分の意識で(作品は)捕まえられない。最後に未完で終われたら、こんなに楽なことはないんです。僕は叫んでおりません」

 --初期の作品は2年間隔だが、今回は「ポニョ」から5年かかった

 宮崎「1年間隔で作ったこともある。『ルパン三世』は4カ月半で作った。最初の『ナウシカ』も『魔女の宅急便』もいろんな材料があったが、その後は『さあ何を作るか』と考えなくてはならなくなった。それで時間がかかった。実際、机に向かえるのは1日7時間が限度。打ち合わせだとか、そういうことは仕事ではないんです。机に向かってこそ仕事。最近はやりっぱなしで放り出して帰るようにしていたが、それでも限界ぎりぎり」

 --最後に

 宮崎「長い間ありがとうございました。(会見について)2度とこういうことはないと思います」

 〈会見は宮崎監督との一問一答に移る〉

 「僕の長編アニメーションの時代ははっきり終わった」

 〈鈴木プロデューサーのあいさつの後、質疑応答に移った〉

 --引退に当たって子供たちへのメッセージを

 宮崎「うーん、そんなにかっこいいことはいえません。機会があったら、私たちの映画を見てくだされば、何かが伝わるかもしれません」

 --長編の監督を辞めるということか。今後やりたいと思っていることは

 宮崎「(映画を)やらない自由もあるんです。でも、車を運転できる限り、毎日アトリエには行こうと思っています。まだ休息を取らなければいけない時期なので、これから(やりたいことが)わかってくるんだと思うんですが…。ご理解ください」

 --映画「風の谷のナウシカ」の続編についての考えは

 宮崎「それはありません」

 --(韓国メディアの質問)韓国のファンに一言。また、ゼロ戦をめぐり、韓国で話題になっていることについての考えは

 宮崎「映画を見ていただければ分かると思っていますので、いろいろな言葉に邪魔されないで、映画を見ていただけたらいいなと思います。いろんな国の方々が作品を見てくださっているのはありがたい。同時に『風立ちぬ』は、日本の軍国主義が破滅に向かっていく過程を舞台にしている。それについてのいろんな疑問は、家族からもスタッフからも出た。それに応える形で作品を作った。ぜひお金を払って映画を見てほしい」

 --今後、ジブリの若手監督作の監修や脚本などに関与するのか

 宮崎「(予定は)ありません」

 --今回の引退宣言は、これまでの発言と何が違うのか

 宮崎「『風立ちぬ』は『ポニョ』から5年かかった。その間、シナリオを書いたり漫画を書いたり、いろんなことをやっていましたが、やはり5年かかる。今、次の作品を考え始めると、5年じゃすまないでしょう。この年齢ですから。次は6、7年かかるかもしれない。僕はあと3カ月で73歳。(作品完成までに)80を過ぎてしまう。この前、83歳の半藤一利さんとお話をして、本当にいい先輩がいると思った。僕も83歳になってこうなれたらいいなと。だから(創作を)続けられたらいいと思いますが、今までの仕事の延長線上にはない。僕の長編アニメーションの時代ははっきり終わった。今後、やろうと思っても、それは年寄りの迷い言だと」

 「高畑監督も誘ったけど…彼はずっとやるんじゃないか」

 〈冒頭、報道陣からの質問は引退理由に集中した。一方、海外メディアからの質問も相次いだ〉

 --引退を決めたタイミングは

 宮崎「よく覚えていないんですけれど、鈴木さんに『もうだめだ』といいました。鈴木さんは『そうですか』と。何度もやってきたことなので、鈴木さんが信用したかは分かりませんが、ジブリを立ち上げたときに、まさかこんなに長くやるとは思わず、何度も引き時を話してきた。『次は7年かかるかもしれない』という話に、鈴木さんもリアリティーを感じたんだと思います」

 鈴木「宮さんから話があったのは6月19日の後ではないか。これまでも『これが最後』という話があったが、今回は本気だな、ということを感じざるをえなかった。『ナウシカ』から30年。その間、いろいろありました。ジブリを続けていく間で、これ以上やるのはよくないんじゃないかとか…。僕も30年間、緊張がずっとあったと思う。それが今回、揺れた。別の言い方をすると、僕自身が少しほっとするところがあった。だから僕は、若いときだったらそれをとどめさせようという気持ちも働いたと思うが、ご苦労さまでしたという気分もわいた。それをみなさんに、いつどうやって知らせようかということは話し合いました。まず言わなきゃいけないのが、スタジオのスタッフに対して。『風立ちぬ』が公開して落ち着いた8月5日に伝えた。そして、映画の公開が一段落した時期に、みなさんにも発表できるかなと。そんな風に考えたことは確かです」

 --(台湾メディアの質問)台湾の観光客が日本を訪れた際、ジブリ美術館は外せない場所。引退後は旅行をかねて海外のファンと交流する予定はあるか

 宮崎「美術館の展示については私も関わらせてもらいたいと思っている。自分も展示品になっちゃうかもしれませんが(笑)、ぜひ美術館におこしいただきたい」

 --鈴木プロデューサーに。「風立ちぬ」が宮崎監督の引退作になる予感はあったのか

 鈴木「宮さんの性格からして、ずっと作品を作り続けるんじゃないかと思っていました。それは、死の間際まで作り続けるんじゃないかと。そんな予感の一方で、宮さんと35年付き合って、別のことをやろうというときに自分で決めて、宣言する人でもある。そのどっちかだろうと思っていましたね。引退の話は僕の予想の中に入っていた。だから素直に受け止められた」

 宮崎「映画作るのに死にものぐるいで、それ以外のことを考えていなかった。映画ができるのか、といった方が自分には重圧でしたね」

 --(ロシアメディアの質問)外国のアニメーション作家からの影響について教えてください

 宮崎「(ロシアのアニメ作家)ノルシュテイン監督とは友人です。負けてたまるかという相手でした。まあそれほどじゃないんですけれど(笑)。今日、実は高畑(勲)監督も出ないかと誘ったんですけれど、冗談じゃないという顔をされて。彼はずっと(映画を)やる気じゃないかと思っています(笑)」

 --作品歴の中で、最も思い入れのある映画は

 宮崎「うーん、自分の中にとげのように残っているのは『ハウルの動く城』です。ゲームの世界をドラマにしようとした結果、本当に格闘しました。僕は児童文学の多くの作品に影響をうけてこの世界に入った。子供たちに『この世は生きるに値するんだ』ということを伝えることが、仕事の根幹になければならないと思ってきました。それは今も変わっていません」

 --(イタリアメディアからの質問)イタリアは好きか。それから、宮崎さんが美術館で館長として働くといいのではないか

 宮崎「僕はイタリアは好きです。まとまっていないところも含めて。友人もいるし食べ物もおいしいし、女性はきれいだし。ちょっとおっかない気もしますが…。それから、館長で『いらっしゃいませ』というよりは、展示物を描き直したりしなければいけないと思っています。美術館も毎日、掃除しているはずなのに、いつの間にか色あせてしまう。美術館をいきいきさせるためにはずっと手を掛けていかなければいけない。それをやりたい」

 「僕は町工場のおやじ。文化人ではない」

 〈宮崎監督の「今後」についての質問は続く〉

 --美術館では短編アニメーションも放映されている。展示の一環として、作品を手がける可能性はあるか。また、鈴木さんは、ジブリの今後をどう考えているのか

 宮崎「僕は自由です。やってもやらなくても自由です。だから、前からやりたいことをやろうと。それはアニメーションではありません」

 鈴木「僕は今、『かぐや姫の物語』(高畑勲監督)のあと、来年の企画に関わっています。僕も65歳です。このじじいがいったいどこまで関わるのか。今後のジブリの問題というのは、ジブリにいる人たちの問題でもある。その人たちによって決まると思う」

 宮崎「やっと上の重しがなくなるんだから、若いスタッフの声が鈴木さんに届く。それがないとだめです。僕も若いころはいろんな企画を出した。鈴木さんは門前払いする人ではありません。いろんな人の意欲や希望や能力にかかっているんだと思います」

 --長編作品で、ほかにやってみたかった企画は

 宮崎「それは本当に山ほどあるんですけれども、理由があったからやれなかっただけです。辞めるといいながら、『こういうのをやったらどうなんだろう』というのはありますが、それは人に語るものではないので、ご勘弁ください」

 --具体的に、これからどんなことをやりたいのか

 宮崎「やりたいことはあるんですけれども、やれなかったらみっともないからいいません。それから僕は、文化人になりたくないんです。僕は町工場のおやじ。それを貫きたいと思っています。文化人ではありません」

 --当面は休息を優先するのか。また、東日本大震災や原発事故が「風立ちぬ」に与えた影響は

 宮崎「『風立ちぬ』の構想は、震災や原発事故によっては影響されていません。はじめからあったものです。時代に追いつかれて、追い抜かれたという感じを映画を作りながら感じました。僕の休息は他人から見たら休息に見えないかもしれない。仕事をやっているとそれが休息になることもある。寝転がっているとくたびれることもある。これから、東山道を京都まで歩ければいいなと夢見ますが、たぶん実現不可能だと思います」

 --「風立ちぬ」で時代に追い抜かれたという感想と、引退は関係があるのか

 宮崎「関係ありません。アニメーション監督は、みんな仕事のやり方が違う。僕はアニメ映画出身なので、描かないと表現できない。そうすると、めがねを外してこう(机に向き合って)やらないといけない。どんなに節制しても、集中できる時間は年々へっていく。『ポニョ』に比べると、机から離れるのが30分早くなった。加齢によって発生する問題は仕方がない。僕は僕のやり方を貫くしかない。長編アニメーションは無理だという判断をした」

 --「クールジャパン」といわれるような日本のアニメーションを、どうごらんになっているのか

 宮崎「申し訳ないんですけれども、私が仕事をやるということは、一切映画もテレビもみないという生活をするということ。ラジオと新聞は少し聞いたり見たりしますが、あとは驚くほど見ていないんです。ジャパニメーションがどこにあるのかすら分からない。発言権は僕にはないと思います。みなさんも私の年齢になればわかると思いますが、気を散らすことは一切できないんです。スタジオの映写室で(アニメ作品を)何本かやってくださるんですが、大抵途中で出てきます。そんな不遜な人間なので、今がしおどきだなと思います」

 --引退宣言をする映画監督が少ない中、あえて引退を公表されたのは

 宮崎「引退宣言をしようと思ったわけじゃないんです。スタッフに、もう辞めますと言いました。その結果、プロデューサーから『取材申し込みがたくさんあって大変です』と。それで、こうなっちゃった。こういうイベントをやる気はさらさらなかったんです」

 「スタッフはよく我慢してくれた」

 --宮崎作品の功績や影響についてどう振り返っているか

 〈質問者は宮崎監督に尋ねたようだが、宮崎監督は鈴木プロデューサーにまず話すよううながした〉

 鈴木「そういうことはあまり考えないようにしているんです。目の前の仕事ができなくなるから。僕が宮崎作品に関わったのは『ナウシカ』から。そこから約30年間、ずっと走り続けてきて、過去の作品を振り返ったことはなかった。それが仕事を現役で続けるということだと思っていた。どういうスタイルで映画を作るのか、なるだけそういうことは封じる。作品が世間にどういう影響を与えたのか、考えないようにしていました」

 宮崎「まったく僕も考えていませんでした。採算分岐点(損益分岐点)にたどり着いたらよかった、と。それで終わりです」

 --(フランスメディアからの質問)先ほどイタリアは好き、という話があった。フランスはいかがでしょう?

 宮崎「正直に言います。イタリアよりも口に合いません。クリスマスにたまたま用事があって行ったとき、どこのレストランに行ってもフォアグラが出てくるんです。それがつらかった。ルーブル美術館はよかったですよ。料理はイタリアの方が好きです(笑)。フランスに(アニメ監督の)ポール・グリモーという人がいて、高畑監督の世代に圧倒的な影響を与えた。今見ても、その志や世界の作り方については本当に感動します。僕もいくつかの作品がきっかけになってアニメーターになろうと思いましたが、フランスの作品から大きな影響を受けました」

 --東映動画(現・東映アニメーション)に入社してから半世紀。つらかったことは

 宮崎「つらかったのは、どの作品でも、スケジュール。僕は終わりまで分かっている作品は作ったことがないんです。見通しがないまま(制作に)入る作品ばかりだった。つらかった、としかいいようがない。最後まで見通せる作品は、僕が(監督を)やらなくていいと思って企画やシナリオを書きました。スタッフは、(先が)分からないまま作業するのですから、よく我慢してやっていたなと思います。でも、それがジブリにとって意味があった。あがってくるカットを自分でいじくっていく課程で、映画への自分の理解が深まっていくことも事実。あまり生産性には寄与しない方式でしたけれども…。とぼとぼとスタジオにやってくる日々。50年、そういう仕事でした」

 --一方、よかったことは

 宮崎「監督になってよかったと思うことは一度もない。でも、アニメーターになってよかったと思うことはある。うまく風が描けたとか、水の処理がうまくいった、光の表現がうまくいったとか…そういうことで2、3日、短くても2、3時間は幸せになれる。でも、監督は最後に判決を受けなければ行けない。これは胃によくない」

 「頭にきていないとナウシカなんかつくりません」

 --つらかった中で監督を続けてきた理由は

 宮崎「簡単な理由でして、高畑勲と出会って、いろんな話をしました。それで『ハイジ』をやったとき、まったく打ち合わせの必要がなかったんです。考えていることが分かる。監督はスケジュールが遅れると怒られる。高畑勲は始末書をいくらでも書いていましたけれども、そういうのを見るにつけ、監督はやりたくないと思っていました。しかし、ある時期がきて、監督をやれといわれたときは途方に暮れたんです。僕は、監督や演出をやろうという人間じゃなかった。僕は監督をやっている間も、アニメーターとしてやってきた。それについてはずいぶんプロデューサーが補佐してくれました。そういうチーム、腐れ縁があったおかげでやれてこられたんです」

 --「かぐや姫の物語」(高畑監督の新作)について

 宮崎「まだ見ていない」

 --「風立ちぬ」の最後のせりふを変えたと聞いたが

 宮崎「最後は本当に煩悶しましたけれども、なぜか。とにかく絵コンテをあげないと制作デスクの女性が恐ろしいんです(笑)。とにかく絵コンテを形にしないとどうにもならない。でも、やっぱりだめだなと思いながら、絵があってもせりふはかえられますから、仕切り直ししたんです。最後の草原は、煉獄なんです。ダンテの『神曲』なんか読むからいけないんですね」

 --今、達成感はあるか

 宮崎「総括はしていません。自分が手抜きした感覚があったらつらいでしょうけれど、たどり着けるまではたどり着いたと思っています。振り向かないようにしてきました。同じことはしないつもりでやってきた」

 --ジブリを立ち上げてから、日本社会はどう変わってきたかと思うか

 宮崎「ジブリをつくったころ(1985年)は、日本が浮かれ騒いでいる時代だったと思います。経済的にもジャパン・アズ・ナンバーワン。そういうことに、僕は頭にきていました。頭にきていないとナウシカなんかつくりません。1989年にソ連が崩壊して、バブルが崩壊した。その過程で、ユーゴスラビア内戦など歴史が動き始めた。今までの作品の延長上に作れないとなった。そこで、僕や高畑監督は豚や狸を主人公にして切り抜けた。そこから長い下降期に入った。バブル崩壊とジブリのイメージは重なっているんです。その後、『もののけ姫』などずるずる作ったりしてきました」

 --(中国メディアの質問)中国での作品上映の見通しについて

 星野「中国では今後、規制緩和で外国映画の上映も増えていく見通しもある。そういった点で前向きに考えていますが、現時点では、ジブリ作品は上映される状況にありません」

 --「風立ちぬ」では、庵野秀明監督ら宮崎監督のゆかりの深い人が出演されている。意図は

 宮崎「僕は東京と埼玉の間を往復して移動していますが、映画もテレビも見ていません。記憶によみがえってくるのは、モノクロ時代の日本映画です。昭和30年以前の作品です。生きるのに大変な男女の記憶です。失礼ですが、今のタレントさんのしゃべり方と比べると、ギャップにびっくりします。なんという存在感のなさか。庵野も、スティーブン・アルパートも、(声優に)選んだのは存在感だけです。乱暴だったかもしれないが、よかったと思う。昔の映画はそこでしゃべっている人にしかマイクが向けられていないので、周りの人間がどれだけしゃべっていても、音が出てこなかった。僕はその方が正しいと思う。音響監督も同じ問題意識を共有していた。ほかのスタッフも気持ちを共有して、いい円満な気持ちで終えられた。映画を作る上で運がよかった」

 --(香港メディア)宮崎監督は「ポニョ」公開よりやせている気がするが、健康状態はどうか

 宮崎「今、僕は(体重が)63・2キロです。50年前にアニメーターになったときは57キロでした。結婚して三度めしを食うようになり、一時は70キロを超えました。醜い豚のようでした。映画をつくる上で体調を整える必要があるので、外食はやめました。朝をしっかり食べ、昼は家内の作った弁当を食べ…節制したらこういう体型になりました。女房の協力のお陰なのか、陰謀なのか。僕は最後、スタートの57キロになって死ねればいいと思っています。健康はいろいろ問題がありますが、何とかなるんじゃないかと思っています。映画一本作るとよれよれになります。この夏は暑くて、歩き方が足りないんです。もう少し歩けば、もう少し元気になると思います」

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