社会・その他

注目される「災害情報無用論」 浸水被害で問われる避難のあり方

 そのおかげもあり、平屋構造の旧棟(A棟、B棟)が水没する前に入居者全員の新棟(C棟)の2階以上への移動(避難)が完了した。もとより、自力避難が困難な人を移動させること自体、かなりの体力を要する作業である。そのような重労働をスタッフ一丸となってやり抜いて、ひとりの犠牲者も出さずにこの困難を乗り越えるには、何の事前準備もないままにそのときを迎え、【避難情報】や【防災気象情報】の入手のみをよりどころとしたその場限りの対応をとるのではおのずと限界があったと言わざるを得ない。そこにはあらかじめ、ある種の「氾濫原の住民としての覚悟」があったように思えてならない。

 リスクを自覚し、備えと心構えを

 なぜそのような危険な場所にそもそも立地しているのかといった類いの意見もあるだろう。しかしそれは、この施設だけに限った話ではない。そのような土地に立地せざるを得ないさまざまな歴史的経緯も含めて考えなくてはならない全国的な問題だ。多摩川の堤防付近に高密度に存在する住居群などを含めた日本中のあらゆる氾濫原のことも同じく包括的に議論されるべき問題である。

 また、孤立する前にもっと早めに避難できなかったのかといった類いの意見もあるだろう。しかし、自力避難が困難で支援を要する人々が避難所まで移動すること自体、大きなリスクである可能性も否定できない。なので、このような人々が可能な限り自分の施設の中の比較的安全な場所にて水が引くまで待機しておくという行動形態は決して非難されるべきものではない。自衛隊や消防や警察などによるボート等での救出は、一般の健常者ではなく、まさにこのような人たちのために集中的に向けられるべきなのではないだろうか。

 なお、もっと水位が上昇していたらどうなっていたかは分からないので、あくまで結果論の域を出ないのではないか、といった類いの意見については、確かにそのような側面はあるだろう。しかし、だからといって「覚悟」を持つことが無駄ということには決してならない。そもそも「覚悟」とは、迫りくるリスクをしっかりと自覚した上で、それに備え、心構えを持つという意味と、諦める(観念する、諦観する)という意味の両面を含む概念だ。

 最善を尽くして、その結果うまくいくこともあるだろうし、それでもダメで諦めるしかない場合もあるだろう。「氾濫原の住民としての覚悟」を持つということは、最初から諦めて何もしない態度とは本質的に全く異なるものである。

 今後、日本に襲来する台風の個数自体は減るものの、ひとつひとつの台風の規模が甚大になるといわれている。洪水ハザードマップのような浸水(あるいはそれ以上の浸水)は今後も起きる。浸水被害をもたらした平成30年の西日本豪雨、そして令和元年の台風が、好むと好まざるとにかかわらず氾濫原に住まわざるを得ないわれわれに対して、いざというときの判断と対応が実効性のあるものでありうるよう、「氾濫原の住民としての覚悟」を持ちなさいと通告してきているような気がしてならない。

 おいかわ・やすし 昭和48年、北海道生まれ。群馬大大学院工学研究科博士後期課程修了。博士(工学)。同大講師などを経て、平成24年から東洋大理工学部准教授、昨年4月に同部教授。専門は災害社会工学。災害に対する住民の意識や行動などについて研究している。

 日本の防災対策の変遷 昭和34年の伊勢湾台風を契機に施行された災害対策基本法で、防災における行政の責任を明記。平成23年の東日本大震災で多くの行政機関が被災したため、国は同法を改正し行政の「地域防災計画」に加え、住民による「地区防災計画」制度を創設。同制度の特徴を(1)住民の自発性を重視しその意向を強く反映(2)地区別の多様な災害の特性を踏まえる(3)評価や見直しにより継続性を重視する-とした。

 30年の西日本豪雨を受け、内閣府「平成30年7月豪雨による水害・土砂災害からの避難に関するワーキンググループ」は昨年末、「温暖化による災害激化により行政主導の対策は限界」と主張。「住民主体の防災体制に転換する」とし、行政の役割を「災害前に住民がつくる避難計画や災害時の避難行動への支援」と明示した。

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