日本人なる要素が身体の構造をつくっているよりも、そういうものが身体の内部に染みついている…そんな感覚だ。自分で削ぎ落そうとしても、なかなか難しい。化学反応で変質しない限り、常にその要素はそのまま残るだろう。
前述をぼくとしてはネガティブな要素として説明した。言うまでもないが、これをポジティブな要素にも解釈できる。公園でボールをとってくださいと人に頼むとき、「お願いします」くらいは言う。自分が礼儀正しいとはちっとも思っていないが、この一部分については(イタリアの子と比べると)少々丁寧かもしれない。
ただし、「少々丁寧である」ことにどれほどの価値があるのか、ぼく自身、どうもよく分からないのだ。なんらかの潤滑油くらいに機能する場合があるかもしれない。だいたい、丁寧である方が気持ちいいじゃない、というのもある。
他人に攻撃的にならないのは、礼儀であるよりも何よりも、心の平和に繋がるのだ。ただ、いずれにしても微妙な感覚を伴う話である。
…というようなことを日頃つらつらと考えていると、冒頭に述べたように、日本的であることが差別化を図るために必要であるとの言説が、ぼくの身体のなかに入ってこないのである。良くも悪くも、日本人バッジを張り付けて歩いていることを自覚せざるを得ない身からすると、どうにもフワフワした話にしか聞こえないのだ。
やりたい人、言いたい人、それはどうぞご自由に、とは思うが。
因みに、なんやかんやこれだけ言って、公園でボールを蹴り返すとぼくも心が軽くなる(笑)。
【ローカリゼーションマップ】はイタリア在住歴の長い安西洋之さんが提唱するローカリゼーションマップについて考察する連載コラムです。更新は原則金曜日(第2週は更新なし)。アーカイブはこちら。安西さんはSankeiBizで別のコラム【ミラノの創作系男子たち】も連載中です。