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当事者意識の持ち方が勝負どころ 勉強の苦手だった人は適切な主語を選ぼう (2/3ページ)

安西洋之
安西洋之

 文章を書くこともそうだ。自分に引き寄せて書けないテーマについて、分析的な文章が書けない。論じる対象のサイズの大小ではない。サイズが大きなテーマでも、自分のやっていること、その範囲で考えていることに繋がると自分が思えるのであれば苦労せずに書ける。

 つまり世界のことを主観的に描けないと、ぼくは文章が書けない。最初の主語が大きくても、結論で「ぼく」に落とし込めるのであれば書けるのだ。

 大きすぎる主語で考えるなとよく言われる。「日本が」とか「米国が」とかは良くないと。ただ、政府関係者なら当たり前に国を主語とするだろう。

 国が主語になることの是非は、国との関係が一人称単数にどう繋がっているか不明なことが多いからだ。政府関係者としての「国」なのか、納税者としての「国」なのか、外国人の友人に話すときの「我が国」なのか。自分の勤める企業なら、主語を企業名として出すのは、国よりも関係がはっきりしている。

 ぼくもいろいろなシーンで何を主語にすべきかを迷う。日本の人の一般的な行動パターンを説明するとき、「私たち」とするか「彼ら」とするかも1つの分かれ目だ。模範的には、すべて「私たち」なのだろう。

 しかし、ぼくがミラノにいる今、日本にいる人たちの現在の行動を説明するに「私たち」は不正確である。そういうとき、「日本の人々」と表現せざるをえない。だが、批判をかわすために、我が身を安全地帯に避難させているという後ろめたさを伴うこともある。

 いつも当事者として適切な主語を選択することは、とても難しい。ただ、妥当性はさておき、主語が最終的に自分の何かの経験や当事者意識に結びつけば、少なくとも発信することに躊躇はなくなる。

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