タイトルにあるブルネロ クチネリとテリトーリオについては先週の本連載コラムに書いた。イタリアの地方にある小さな村のファッション企業が仏・エルメスと同等のブランドであると格付けされ、世界のトップレベルの人々をファンに抱えている。そして、その企業が田舎の風景を美しいものにすべく長年、手間暇をかけてきた。それら一連の事業は人々の尊厳を大事にするためだ。(「人への尊厳がクリエイティブに繋がる」 本当に“腹落ち”したクチネッリ氏の哲学)
テリトーリオは地域を表すイタリア語で都市とその近郊、またその周辺の田園地帯をも歴史や文化の文脈からひとつのゾーンとしてみる概念である。行政区分とは異なる。そのゾーンをクチネリ氏は半生をかけてケアしてきた
こうしたローカルが重視されるモデルがイタリアの各地に存在する。ローマの中央政府が一括して管理するのではなく、それぞれの地方が分散型システムのひとつとして運営するのである。企業をコアとした地域コミュニティに限っていえば、かつてオリヴェッティ、ベネトン、ディーゼルと名前があがってきた。日本には企業城下町という言葉があるが、これらのイタリアの事例はその企業の法人税が地域財政を支える以上の地域文化貢献モデルとして評価されてきた。
「イタリアは都市国家のあつまりだからでしょう」と上記を説明する人が多い。それも大きな理由だろう。しかし、それだけではないということにぼくも気づいてきた。
中央集権的なコミュニティとは非人間的なコミュニティなのだ。1人1人が生活している場所で何かを感じ、考え、そして判断することを重視するのは人間の尊厳に関わることである。ローカルアイデンティティが大事にされるのは、このコンテクストにおいてまったく自然な流れだ。