「日本文化を表現したい」と語る人がたくさんいる。商品企画をする人、事業企画を練る人、アートに関わる人、もうさまざまだ。でも「それじゃないと目立たない」との言葉が続くと、ぼくはどうも落ち着かない。
自分の属する文化を表現に入れないとアイデンティティが保てないというなら分かる。だが、自分のやっていることの差別化に使うのは、発想のスタート地点でずれている気がする。
そんなのほっぽっておいても、君らしさというのは出るものだ。いずれにせよ、その君らしさには日本らしさがついてまわっているから、そう騒ぐな!とぼくは言いたくなる。
自分が生まれ育った文化は、君にとって調味料ではない。日常生活のちょっとした瞬間に、ぼくもそう気づくことがある。
例えば、ミラノの公園を歩いている。向こうの方で子どもたちがサッカーボールを追って走り回っている。時によって小学生の場合があり、高校生のこともある。たまに蹴ったボールが大きくコースをはずれ、歩いているぼくの方に転がってくる。
「ボール!」と離れた子どもたちの叫び声が聞こえ、転がっているボールに初めて気づくこともある(ボールがぼくよりも子どもたちの方が距離的に近いこともあるのだ!)。
彼らはぼくにボールを蹴り返して欲しいのだが、「ボールかよ」とまま思う。「ボールをとってください」「ボールを送り返してください」でもなく、「ボール!」なのだ。
ぼくが小さな時、日本で野球やサッカーのボールを大人にとってくれと頼むなら、頭を下げるなり、「お願いします」といった習慣がふと蘇るのだ。
だから、ぼくはミラノの公園のなかで「なんだ、あの少年たちは」と思ってしまう。