だが、仮に誰かを知の巨人と称する理由なりが発信側にあるとすれば、いわゆる権威主義の新しい「皮」を必要としていることになる。
どうして新しい皮が必要なのか?
いくつかの動機を想像することは可能だろう。時代の速度と状況の複雑さに対して科学的な合理性だけでは対応しきれなくなっている。そうすると対極として非合理性の主張が強くなる。並行して、野に放たれた個人の主観的な見方が乱立する。
多くの人は好き好んで主観的な見方を提示するのではなく、仕方なしに提示せざるをえなくなる。誰かが世界観を「どうぞ、ここからお選びください」と差し出してくれた方が楽だからだ。結果、野で十全の力を出し切って幸せになれる個人もいるが、「次善策としての既製服」を歓迎する人は少なくない。
鉄のカーテンの向こう側の世界が長く続いたのも、人間のそれなりの弱さと共存した好都合な面がある。こうした類の需要への対応として、提供する知がカッコつきの知の巨人の口から発されている…。
こういった話を推測する難しさは、それぞれの発信の良い悪いではなく、それぞれが全体状況の空き地にはめ込まれた時のマップが歪んでいることに、最終形を見たその時に初めて気づくのが多いことだ。
しかも、権威主義を必要とする人の姿は、具体的に誰かと政府、企業名、個人名として顕われるのではなく、実は「既製服を求める人たち」のうねりとしてしか見えないのである。受け手の人たちから発信者の姿を想像するしかない。
多分、発信者の本当の顔は見えないだろう。さらに言えば、発信する本人も自身の本意に気づいていない。