日本車にも美しさを… 戦後自動車産業をイタリアから支えた一人の日本人
最近、17歳の息子をもつ大学の先生が、「私はバイクが好きで2台持っているが、息子はまったく関心なく、一度も乗ったことがない。免許証は持っているのに、ですよ!クルマにも見向きもしません」と語った。ミラノでのことだ。
10数年前、日本で若い人たちがクルマに関心をもたなくなってきた、とのエピソードを欧州自動車メーカーとの会議でぼくが発言した。すると「米国の市場調査レポートで似たような傾向を読んだが、欧州ではまだそのような話はない」との反応だった。
それから数年後、「大学生の娘がカーシェアリングの時代、クルマをもつなんて古い考えと一蹴されたよ」と嘆く、イタリア人の友人の姿があった。
一方、ぼくの15歳の息子はF1が大好きだ。通学する高校の25人のクラスでF1に興味あるのは、彼1人。彼は欧州人を中心としたソーシャルメディアのコミュニティで情報交換しているが、殆どは大学生以上だ。だから冒頭の大学の先生には「分かります。うちの息子が例外的だと聞いているので」とコメントを返した。
5年後、10年後、先進国の自動車市場はどうなるのか?
この日曜日、トリノで小さな集まりがあった。日本の戦後自動車産業をイタリアから側面支援した宮川秀之さんが、イタリアの仲間たちに自らの人生を語る場だ。「側面支援」というのは、1960年代、箱型の武骨な日本車にイタリアのデザインの力で「美しさ」を提供し、日本車のデザインの向上に貢献した、という意味だ。
宮川さんは1960年、パスポートの取得からして難しかった時代、バイクで香港をスタート地点に世界一周の旅に出た。途中のイタリアでイタリア人女性との運命的な出会いがあり、その後、生活とビジネスの基盤を作った実業家だ。
マツダのルーチェは宮川さんがマツダにイタリアデザインの導入を説いて作られたクルマである。
世界のカーデザインの世界でトップランナーであり続けてきたジュージャロと1960年代後半、イタルデザインをおこした。もう1人のメンバーは、元フィアットのエンジニアだった。
イタルデザインはワーゲンのゴルフを筆頭に多くのヒットデザインを生み出してきたが、日本ではいすゞの117クーペやピアッツァなどが、クライアント名を公表しているプロジェクトとしては有名だ。
ぼくは1990年から3年半、宮川さんの経営するトリノの会社でビジネスプランナーとして修業していたので、彼の1960年代の話はよく聞いている。日本の自動車メーカーがデザインの重要さに気づき、専門のセクションをもうけて力を注ぎ始めるにそう時間はかからなかった。
宮川さんはビジネスの傍ら、創刊間もない雑誌「カーグラフィック」に欧州車事情の記事を書いていた。エンツォ・フェラーリとの付き合いも、そういうなかで生まれてきた。クルマが一番輝いていた時代に、クルマの世界の輝ける主人公たちと一緒に活動していた。
ぼくは1990年に、宮川さんはイタリアに来てからの30年間で自分名義のクルマを120-30台、乗り継いできたと聞いた。自分でもクルマを自ら判断する力を磨いていたのだ。
今回、久しぶりに宮川さんの話を聞き、よく知っている内容だが考えることはたくさんあった。
今、クルマは電気自動車、自動運転、情報通信網のハブなどいろいろな点で話題になっている。しかし、当事者が50年前にあったようなロックスター的な扱いを受けることはない。イーロン・マスクはテスラモーターズのCEOであるよりも、起業家としてよりスター的である。
時代はめまぐるしく変化する。
一つのモノが長い間スターであることはない。が、そのモノが輝いていた時代、舞台の上でスポットを浴びていた人たちがどんなに魅力に満ちていたか、これはその時代を知らない世代にも想像できる。
誰がどんな状況で時代を作ったのか、これが人々の関心の的なのだ。蒸気機関車であれ、双発のプロペラ機であれ、コンピューターであれ、それぞれに大きなイノベーションを生んだ科学技術の発達がある。
それはそれで人々を魅了するが、同時に「その時代にどういう生き方をしたのか」という普遍的な面に自分を重ね合わせていく。クルマに興味のない世代の人たちも宮川さんの話を熱心に聞く様子を眺めながら、普遍的であることの意味を深く考えることになった。(安西洋之)
【プロフィル】安西洋之(あんざい ひろゆき)
ローカリゼーションマップとは?
異文化市場を短期間で理解するためのアプローチ。ビジネス企画を前進させるための異文化の分かり方だが、異文化の対象は海外市場に限らず国内市場も含まれる。
関連記事