村上は大の野球ファンだったが、それだけで球団結成を思い立ったわけではない。当時の平和台球場にはナイター照明さえなかったが、3交代制の炭鉱労働者なら昼間の試合でも観戦にきてくれる。朝夕ラッシュ時以外の電車やバスの乗車率も上がるはずだ-。こう算盤を弾いたのだ。
24年はプロ野球の変革期でもあった。日本野球連盟総裁だった正力松太郎(読売新聞社主、1885~1969)が同年4月、米大リーグに倣い、球団数を増やして2リーグ制を導入する構想を表明したからだ。
これを機に毎日新聞や西日本新聞、近鉄、大洋漁業などが続々と加盟を申請。西鉄も10月に申請した。
正力は当初、関東、関西から遠く離れた福岡の企業の新規参入に難色を示した。困った村上は、福岡県選出の衆院議員で首相の吉田茂(1878~1967)の女婿である麻生太賀吉(麻生太郎副総理の父、1911~1980)に泣きついた。
「それなら連合国軍総司令部(GHQ)の力を借りればよいじゃないか」
麻生からこんな助言を受けた村上は、吉田の腹心でGHQと太いパイプを持つ白洲次郎(1902~1985)を密かに訪ねた。
その後、村上は、西鉄事業部に在籍していた親戚筋の中島国彦(90)を球団創設の特命係に指名し、白洲との折衝役を命じた。中島は上京する度に、24年1月に発売されたばかりの福岡・中洲の「ふくや」の明太子を持参した。白洲はこの博多の珍味を非常に気に入り、パンに塗って食したという。