■「がむしゃらに」自分の限界に挑戦
修羅場を経験した経営者は数多いが、荻田伍アサヒグループホールディングス前会長(3月から相談役)もその一人。営業部隊を率いてどん底を生き抜き、再生不能とみられた飲料子会社を再建させ、勢いをなくしていたアサヒビール社長を務めた。“逆境の指揮官”の生き方とその現場力とはどんなものだったのか。
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《最初の内定企業に入社するおきて》
『オイ、アサヒビールを受けに行くと、ビールを飲ませてくれるそうだ』。こんな噂が九州大学のキャンパスに流れたのは、東京五輪を目前に控えた1964年の晩夏だった。
「いまの若い人には信じてもらえないでしょうが、当時ビールは高級品であり学生の身分ではまず飲めなかったのです。所属していた柔道部でも、酒といえば合成酒ばかり。そこで、同じ経済学部4年の仲間数人と、鹿児島本線の竹下駅近くにある博多工場に赴き入社試験を受けた。やはり噂で、ビールは飲めなかった。代わりに出されたのは三ツ矢サイダーでしたね」
「この試験で私は内定を得た。20~30社を受けて“就活”するいまの学生とは違って、『最初に内定を出してくれた会社に就職する』のは当時の不文律。もう、選択の余地はなかった」
五輪後の70年に大阪万博を控えていて、高度経済成長は既に始まっていた。「日本全体が、大きな波に乗って一つの方向に向かっていた時代でした。個人的には柔道ばかりで“優”が少なかった私を採ってくれた恩義はありましたし、発売されたばかりの小瓶ビール『アサヒスタイニー』が話題になるなど、アサヒビールという会社に魅力を感じてもいた。まぁ、福岡県出身なので、九州の会社に入りたいという思いも、少しはあったのですが」