東京工場焼失後、仮建屋を訪問する父、小仲正規氏=昭和40年代【拡大】
◆甘くない現実
1965(昭和40)年9月8日、ホテルオークラで関東の代理店などお得意先600人を招いて新製品発表会を開きました。気持ちは総決起集会です。「今後は青雲の名でお願いします」と訴えました。壇上には主だった卸店が上がり、応援演説をしてくれました。「これはいけるぞ」と手応えを感じていると会場から、そのころ大ヒットしていた岸洋子の「夜明けのうた」の大合唱が始まったのです。伴奏もなく、自然と。感激で胸がいっぱいでした。
しかし、現実は甘くはありません。昨日まで売っていたブランドが、今日はライバルとなったのです。お得意先の反応は分かれました。無理もありません。孔官堂が製造、販売する「蘭月」を待っていれば、これまで通りになじみの商品が売れるのです。ここで、あえて東京孔官堂の新商品「青雲」に賭けるかどうか。「蘭月」に流れた代理店もありました。
最初、「青雲」は予想以上に売れましたが、3カ月後、孔官堂による「蘭月」の販売がスタートすると、「青雲」の売り上げがばったりと止まりました。業界ナンバーワンで伝統もある孔官堂が東京で知名度のあった「蘭月」を売り始めたわけですから、代理店は大阪についたほうが安泰です。「青雲」は返品の山。こたえました。
営業社員はもとより、工場や事務所関係の社員らも、休日返上で販売店に出向き、事情を説明して回りました。そのおかげもあって、徐々に関東を中心に盛り返すことができましたが、やはり大きかったのは父の存在でした。父が脈々と築いたお得意先との信頼関係が大きく貢献してくれました。