東京工場焼失後、仮建屋を訪問する父、小仲正規氏=昭和40年代【拡大】
私の立場は製造部長でしたので、生産体制の維持が大きな課題でしたが、職人らは「青雲」へのシフトを黙々と受け入れてくれました。ただ、淡路工場には協力業者がおり、名義上は孔官堂の下請けになっていました。彼らは「蘭月」から「青雲」にシフトするには、原料を東京から運び、出来上がった製品は東京に運ばなければなりません。
私が淡路に飛び、懸命に説明したこともあり、数社、離れていきましたが、ほとんど混乱なく継続してくれました。
◆東京工場が全焼
ところが、一難去ってまた一難。「青雲」発売からわずか3カ月後の65(同40)年12月、池袋の東京工場が全焼したのです。私はその時、日光工場にいましたので、池袋に駆けつけましたが、もはや手の施しようがない状況でした。「青雲」で巻き返しを図ろうとしていた矢先です。生産は半減、茫然(ぼうぜん)自失たる状況でした。が、日光工場を昼夜二交代制にしてフル稼働させ、文字通り、生産現場は死力を尽くして、復活に向けて取り組んでくれました。