
パックマンのゲーム画面。斬新なゲーム性により、世界中で愛されている【拡大】
当時はゲームの画像には著作権が認められていなかったが、パックマンの偽物が出回ったのをみた中村さんはすぐさま提訴。ゲームの画像は「映画の著作物」に該当するとして、上映権を主張する。この結果、85年に「プログラムの著作物」が認められた。この一連の戦いは「パックマン訴訟」と呼ばれ、今でも業界では語り伝えられている。こうした知的財産権への取り組みなどを踏まえ、石川氏は「ゲーム産業が社会的にも認知されるようになった原点には中村さんの存在がある」と振り返る。
中村さんは、家業の鉄砲店の承継をあきらめ55年、30歳の頃にナムコのルーツとなる中村製作所を設立しエンターテインメント産業に足を踏み入れた。中村さんは、その当時のことをよく「本当は船乗りになりたかったが、目が悪かったのであきらめた」と説明していた。
当初の仕事は、横浜の松屋デパート(後に横浜松坂屋本店となったが現在は閉店)の屋上で手掛けた金魚すくいや電動木馬の設置など。次第にデパートの屋上遊園地の運営や遊具製造などに拡大、事業の素地を築いた。
74年にテレビゲームの老舗、米アタリの日本法人を買収。ゲーム産業に本格進出し、77年に社名をナムコに変更した。太東貿易(現タイトー)が社会現象にまでなったビデオゲーム機「スペースインベーダー」を発表すると、素早く反応し、「ギャラクシアン」「マッピー」などを投入して業界のトップ企業へと躍り出た。