【成長への挑戦 熊谷組の120年】(5-2)引き継がれる挑戦者の系譜 (1/3ページ)

熊谷組の創業者である熊谷三太郎氏
熊谷組の創業者である熊谷三太郎氏【拡大】

  • 創業の地である宿布発電所の遺構
  • 施工中の大町トンネル(現・関電トンネル)
  • 大町トンネルの貫通式
  • 法人化のきっかけとなった三信鉄道の建設工事
  • 関西国際空港第2ターミナルビルの国際線拡張(中央より下側の建物)
  • 台湾・台北にある高層住宅「陶朱隠園」

 ■「100年後に残る有意義な仕事を」

石工からのスタート

 「三太郎ではないか」

 横浜で貿易商となる夢を抱いて家出を企てた少年の前に、叔父が立ちはだかった。1886(明治19)年2月、福井県敦賀駅前でのことだった。福井市の自宅に連れ戻されれば未来はない。絶望で天を仰いだ少年は、このとき16歳だった。名を熊谷三太郎という。120年の歴史を刻むことになるゼネコン、熊谷組の創業者となる男だ。

 熊谷三太郎は福井県敦賀市に生まれ、父の再婚に伴って福井市に移り熊谷家の養子となった。尋常小学校卒業後進学はかなわず、野菜の売り子や警察署の給仕などを務めた。職場の警察署長は目先の利く三太郎を高く買っており、貿易などにかかわる横浜の知人を紹介してくれた。ただ、跡取りである三太郎を熊谷家が手放すはずはない。有り金をつかんで家出を決行したが、熊谷家からの電報を受けていた実母方の叔父に見つかり、引き留められたのだ。「福井に戻るなら死ぬ」。三太郎の固い決意をみた叔父は自宅にとどまることを許す。居候も気まずくなり、三太郎は叔父の石屋を手伝い始めた。石工修業は5年に及んだ。その後、曲折を経て福井で灯籠などを作る石材業を営んでいたがうまくいかず、当時活発化していた鉄道敷設工事などに資材供給を行うようになる。1898(明治31)年、京都電灯が計画した福井県宿布(しゅくぬの)での水力発電所建設工事で、三太郎は堅石積みなどの工事を請け負い、完成を見た。これが熊谷組の創業元年とされている。

飛島組の「熊谷」

 こうした活動の中で、三太郎は5歳年下ながらすでに土木工事会社「飛島組」を率い、頭角を現していた飛島文吉(飛島建設創業者)と知己を得た。明治38年、福井県中尾発電所の工事を受注した飛島氏は、石材関連の業務をすべて三太郎に任せるほど、全幅の信頼を置いた。

 飛島組における三太郎の立場は、社員でありながら熊谷組を率いる下請け業者のようでもあり、また条件によっては三太郎が工事案件を単独で請け負うこともあるなど、きわめてユニークなものであった。当時の飛島組には、後に前田建設工業を創業する前田又兵衛も社員に名を連ねており、隆盛ぶりがうかがえる。多数の土木工事にかかわるなかで、三太郎は徐々に経営者としての風格を身に着けていった。

 1916(大正5)年、46歳となった三太郎は、のちに右腕となり3代目熊谷組社長も務めた牧田甚一(当時25歳)と知り合う。中国地方を縦断する根雨線(現伯備線)の建設現場。鉄道技術者だった牧田は、現場所長としてさっそうと切り盛りする三太郎に強い印象を受けた。「小柄だが美髭をたくわえ、金縁眼鏡に金側時計金鎖のいでたち。きざなところは少しもなくスマートなジェントルマン。仕事一筋の男らしさがあふれていた」。牧田は大柄で相撲や野球を得意としたというが、「この人となら一生をかけることができそうだ」と直感し、三太郎に心酔していく。「俺と一緒にやろう」。三太郎に誘われ、以後、牧田は行動を共にし、数々の難工事を手掛けることになる。

 昭和に入ると地方の鉄道会社などによる線路の敷設工事が盛んになるが、採算性が悪い工事が増えた。飛島組ではあるとき工事代金が回収できない事態となり、鉄道工事の受注から手を引くようになった。これを受けて、三太郎が個人で敷設工事を請け負うことが増えていく。例えば、山形県の鶴岡と湯の浜を結ぶ庄内電鉄の工事は、技術的には容易であったが発注者側の資金力が乏しく、三太郎が工事代金の立て替えから電車車両の買い付けまで面倒をみることになってしまった。同様の工事がいくつもあったという。いかに採算を合わせたのか、詳しく伝わっていないが、特殊なノウハウと仕事への情熱、資金調達を可能にする個人的な信用が可能にしたのかもしれない。

業者ばなれの果敢さ