業者ばなれの果敢さ
1934(昭和9)年、三太郎は運命の工事を請け負うことになる。愛知と長野を結ぶ三信鉄道(現飯田線)、中部天龍-門島間の工事だ。45キロメートルの区間に116のトンネル、54の橋梁(きょうりょう)を作る計画。しかも鉄道会社側には資金があまりない状態で、当初話が持ち込まれた飛島組では工事代金が未回収になる危険性や工事自体が困難であることから社長・文吉の意向で受注を断ったため、三太郎が熊谷組の仕事として請け負うことにした。
問題は資材の運搬。天竜川の上流に運んだセメントや石材を川下りの要領で舟で現場に運び、帰りは船頭が空舟に綱を付け川辺の岩伝いに引っ張り上げた。冬には河原に雪が積もり舟は帰れない。陸路では山越えとなり、資材どころか作業員の食料も枯渇しかけるありさまだった。また、政府の助成金制度の関係で竣工(しゅんこう)期限が短かった。難工事は終えたがいまだ10キロあまりのレール敷設が終わらぬ状態で鉄道省の検査が入った。落第の判定を受けそうになりながら、期限ぎりぎり最後の1日でレール敷設をやり遂げたのは、もはや伝説となっている。
三太郎はなぜこんな工事を請けたのか。「100年後に残る有意義な仕事をやってみたい」「沿線地方の人々の利益に貢献したい」。そんな言葉を残している。当時の新聞では三太郎の偉業を「業者ばなれした果敢さ」と評した。1937(昭和12)年に三信鉄道は全線開通した。この工事で自信をつけた三太郎は、翌1938(昭和13)年1月6日、晴れて「株式会社熊谷組」設立に踏み切る。三太郎68歳、副社長には息子の太三郎、専務には牧田が就任した。あの家出から52年を経ての一本立ちだった。
米軍の土木力に驚嘆
1945(昭和20)年までに熊谷組の福井本社、東京営業所ともに空襲で焼失したが、仮事務所で事業を継続した。このころ、牧田は兵役から帰還した将校から「米軍は島を占領するとブルドーザーで森を切り開き、1カ月もせずに飛行機を飛ばす」との話を聞き、驚嘆したという。戦後、連合国軍のマッカーサー最高司令官も米国の勝因の1つに機械土木力の働きをあげた。牧田は「わが国の実情に合った土木機械を製作する工場が必要だ」と思い立ち、豊川市に独自の機械製造工場を立ち上げた。熊谷組の豊川工場は同社の技術力の源泉ともなり、現在は子会社のテクノスとして自社用、外販用各種技術・サービスの供給に尽力している。
1949(昭和24)年には当時国内最大級の平岡発電所工事を受注。天竜川流域開発の一環で、三太郎にとっても念願の工事案件だった。喜びもつかの間、三太郎は病に倒れ、死の床についた。牧田は三太郎を見舞った際、同発電所工事の様子を収めた記録映像を持ち込み、即席の試写会を開催した。病床から食い入るように映像を見ていた三太郎は「よかった、よかった」と子供のように喜んだという。その3カ月後、81年の波乱にとんだ人生に幕を閉じた。