判断の物差しは「三喜経営」
工場直売の店舗をフランチャイズ・チェーン(以下FC)方式で展開したことが、シャトレーゼが大きく業績を伸ばす原動力となりました。
出店戦略の話をする前に、シャトレーゼの経営にあたって僕が最も大切に考えている方針について、少しお話ししたいと思います。
1967年に社名をシャトレーゼに変更した際、僕は社是を「三喜経営」とし、経営の根幹に据えました。「お客様に喜ばれる経営」「お取引先様に喜ばれる経営」「社員に喜ばれる経営」、この三つの喜びがあってこそ経営が成り立つ、という考えです。
まず一番はお客様ですから、何事もお客様視点で考えること。扱う商品が食べものなので、おいしいことはもちろんですが、安全・安心であることも不可欠です。
次に、お取引先様が喜んでくれること。平たくいえば、生産者や小売店が儲かる仕組みを考えることです。
シャトレーゼでは、欧米式FCでは当たり前のロイヤリティを一切取りません。売上金を本部に送金する義務もありません。FCオーナーはいわば「のれん分け」をしたパートナー、一緒に成長していきたいと考えているからです。
「お客様のために」上場を取りやめた
そして、お客様とお取引先様に喜んでいただけたら、今度は社員の頑張りにも報いなくてはなりません。
これは最近の取り組みですが、おかげさまで売り上げが好調ですので、業績目標が達成できた年は、決算前に利益の1割を決算賞与として配分することにしました。
こうした社是や経営理念というものは、とかく形骸化しがちですが、シャトレーゼではこれを「判断するときの物差し」にするよう繰り返し指示していますし、僕自身肝に銘じて実践しています。
たとえば、僕は古い人間ですから、企業たるもの株式市場に打って出ることを一つの到達点だと考えたことがないわけではありません。正直な話、証券会社に上場用の資料を提出し、公表する一歩手前まで準備を進めていたのです。でも、明日公表という直前に、取りやめました。
上場すれば「株主のために」が一番になってしまいます。「お客様のために」を押しのけて、株価を上げたり、配当を増やすための経営をしなければならないなんて、本末転倒もいいところです。
株主の顔色をうかがうことなく、これまで通り自分の信念に従って、思い切った挑戦をしていきたい。お客様のことを第一に考えていきたい。そう思って、やめました。
両親の背中が教えてくれた「人に親切にする」こと
「三喜経営」は、両親の背中から学んだ教えです。
齊藤家というのは来客の絶えない家で、毎日たくさんの人が来ていました。父は分家なのですが、分家した先の周囲の農家が田や畑や桑畑だったのを見て、収入のいいぶどう栽培に転向する手助けをして、地域の世話役のようになっていました。
自分のぶどう畑には雇い人がいますから、自身は地元を回って棚の作り方やら剪定(せんてい)の仕方やらを教えていました。そういうことをするのが、好きだったのでしょうね。
また、拡大志向の強い人で、ぶどう栽培だけではなくワイナリーのほか、戦後は干しぶどうの事業なども手がけていました。買い付けに来た市場の人が旅館代わりに泊まっていったり、僕の小学校の先生までが、帰宅途中に毎晩うちに寄っては父と一杯やって帰ったり、とにかく賑やかな家でしたね。
一方、母はといえば、父との結婚を機に女学校の先生を辞めたのですが、面倒見のいい母を慕って生徒たちが「もっと教わりたい」と集まってきて、しばらく齊藤家の二階が私塾のようになっていたこともありました。多いときは50人ぐらい、裁縫やら作法やら教わりに来ていたと思います。
そんな家だったのですが、僕が高校生ぐらいのときに、アメリカから大量のカリフォルニアレーズンが日本に入ってくるようになって、干しぶどうの事業に失敗し、大きな借金をすることになってしまいました。そんなとき、それまで父がなにくれとなく世話をしていた人々が、「齊藤を助けろ」と資金を出し合ってくれたりしたのです。