話題・その他

「世界遺産登録で地獄を見た」 1万人が押し寄せた人口400人の町 (1/3ページ)

 松場登美さんは約40年前、夫・大吉さんの故郷である島根県大田市大森町に移り住み、町内の古民家再生、アパレルブランド「群言堂」の運営などを通じて、過疎化、高齢化する町の再生に取り組んできました。しかし2007年、松場さんたちが暮らす大森町のそばの「石見(いわみ)銀山」が世界遺産に登録され、町は大きな変化に直面します--。※本稿は、松場登美『過疎再生 奇跡を起こすまちづくり 人口400人の石見銀山に若者たちが移住する理由』(小学館)の一部を再編集したものです。

 「世界遺産登録で、ビジネスチャンスがやってくる」

 帰郷して20年後の2001年、事業と町づくりを両輪でやってきた私たちの足元を揺るがす大きなできごとが訪れます。石見(いわみ)銀山が世界遺産登録の前提となる「暫定リスト」に掲載されることになったのです。

 世界遺産への登録を、足元を揺るがす大きなできごとと表現したことに違和感を持たれる方もいらっしゃるかもしれませんが、私たちにとってはまさに青天の霹靂でした。

 初期の世界遺産登録説明会では、壇上にいる人たちが「みなさんうかうかしている場合じゃないですよ、世界遺産になったら、どんなビジネスチャンスが訪れるかわかりませんよ」と、まくしたてていました。私は「やっぱりそこか」と落胆しました。世界遺産登録が人間の欲をあおるできごとになっていることに、ひっかかりを感じたからです。世界遺産登録に真っ先に異を唱えたのは夫でした。夫は反対していたわけではありませんが、準備のために時間がほしいと主張していました。でも行政と町民の思惑には差があったように思います。町の中で賛成派と反対派、行政対民間といった分断が起こってしまいました。これは私たちにとっては、かなり辛いできごとでしたね。この章では世界遺産登録のてん末についてお伝えしますが、ここから先は熱心に活動していた夫の大吉さんにバトンを渡します。

 烏合の衆に大森町が荒らされてしまう

 松場登美の夫、松場大吉です。

 私たちは世界遺産になる20年も前から石見銀山に店をつくり、仲間たちと町づくりをしてきました。本店は地域の店というより、国内外に向けたショールームにしたい、そういう思いで、このわずか400人の町に投資してきたのです。そして、ゆっくりゆっくりと進みながら、この町を訪れるリピーターを増やしてきました。そこにポンと世界遺産の話が出てきたのです。

 私は、もともと世界遺産自体を否定していたわけではありません。ただ世界遺産に登録されたらもうかる、人がたくさん来て町が潤う、そういった経済一辺倒の行政の姿勢には異議を唱えました。

 たいていの人が飛びつく話かもしれませんが、私からすると、大手観光業者の思惑に踊らされた烏合の衆に大森町が荒らされる、本当の町のよさがなくなってしまうのではないかというこわさがありました。

 世界遺産に反対の狼煙をあげる

 そう思った理由の一つに、1995年に世界遺産登録された白川郷の例がありました。石見銀山の世界遺産登録の動きが始まったころ、有志二十数名で視察のために白川郷へ行きました。人の暮らしがある町が世界遺産になった例として参考になるのでは、と思ったからです。しかし当時は、観光優先の町になっているように見えました。

 そこに住むおばあちゃんからは、こんな話を聞きました。おばあちゃんが畑仕事をしていると、カメラを持った観光客から「おばあちゃん、こっち向いて」と被写体にされるそうです。おばあちゃんは、ふつうに生きるために畑仕事をしているはずなのに、動物園の動物のように見世物になっている。最初は「どうぞ」とカメラにおさまっていたけれど、何回も催促されるといやになって、畑仕事は観光客のいない早朝と夕方だけにするようになったと言います。あまりに失礼な話ですよね。

 その後、白川郷では行政と住民の話し合いの場を設け、当時、抱えていた問題の解決にのりだしたと聞きました。

 それで私は反対の狼煙を上げたわけですが、最初は多かった異議を唱える仲間も、話が進むうちに、どんどん減っていき、最終的に数人しかいないという状態になっていました。世界遺産になれば町が豊かになると、どんどん喧伝されて、新聞をはじめメディアも「世界遺産に向けて」という見出しをつけてあおるわけですから、人々がそちらに進んでいってしまうのもしょうがない。1年ぐらいで流れが大きく変わっていきました。

 議論の渦の中へ

 土地の値段が上がると期待した人もいたようです。当時は世界遺産という言葉に何かマジックがあるように感じていた人も多かったのではないでしょうか。

 これは、もういくら反対しても、単に奇人扱いされるだけで、一般的には理解されないだろう。ならば町の協議会に入り、そこで正々堂々と町のよさや未来を語り、そこから議論していこう。世界遺産になる準備として、住民や行政としっかり話し合って合意形成を得ながら町を守っていく。そう私は考えを切り替えて、この渦の中に入って動くことを決意しました。

 そこから2年かけて、私は自治会の協議会長になり、町の住民憲章や町のルールをつくりました。1年365日のうち大半日は町を歩いて住民と話したり、町民集会や会議をしました。

 住民は100人いれば100通りの考えがあって、全く同じという人はいませんから、全員の意見をまとめていくことには難しさが伴います。一人一人の考え方を認めながら「こっちの方向に向かっていくけれど、よろしいですか」と確認する。

 それでも難しい場合は、とにかく頭を下げて「ついてきてくれ」「一緒にやろう」と言うしかない。何度も何度も会合を開き、もうみんなが疲れ切って「松場さんの言う通りでいいよ」というところまでやりました。

Recommend

Ranking

アクセスランキング

Biz Plus