この詩は政治を混乱させる讒言(ざんげん)について書かれてあり、詩意や前後の文脈に照らして解釈する限りにおいては「他の人の心」が「悪い心」を指すというだけの話なのだ。「忖度」そのものが「悪い」を含意するわけではなく、だから石川氏も「悪い」をわざわざパーレンで囲ったのだろう。
そのパーレンをコラム子が外した結果、忖度の語義がねじ曲げられた。「たかがパーレン」で済むような話ではない。
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さらに-。詩経の「他人有心 予忖度之」は実は、中国の思想家、孟子が諸侯や弟子と交わした問答などを記した『孟子』(梁恵王章句)にも引用されている。斉の宣王に孟子が「人民は誤解しているが、王には惻隠(そくいん)の情がある」と説く。すると王は「詩経には『他人有心 予忖度之』とあるが、これはあなたのことを言ったものだ」「あなたの説明によって私は自らの心にひしひしと思い当たる」と喜んだ。
もし詩経にいう「忖度」が「悪いたくらみを見抜く」ことだったら、宣王は喜ぶどころか、自らの心を忖度した孟子をきっと責め立てたに違いない。
言葉の本来の意味を、マスコミが自らの主義主張を引き立たせる目的で勝手に変えてしまう。これをこそ「印象操作」というべきではなかろうか。