進行方向右手前方に、あの名峰がくっきりと姿を現した。マッターホルンだ。澄みきった青空を背景に、うっすらと雪を残す冴え冴えとした姿は、神々しささえ感じさせる。ほうっ…。声にならないため息が、満員の車内に満ちた。窓の外にマッターホルンって。あまりの非現実感に軽く目眩を覚える。
ゴルナーグラート・モンテローザ鉄道は、標高1620mのツェルマットと標高3089mのゴルナーグラートを、わずか42分で結ぶ登山鉄道だ。標高差1469mを、アプト式ラックレールでぐいぐい登る。レールが噛み合うたびに起こるアプト式特有の小さな揺れと音が、心地いいったらない。一歩一歩堅実に大地を踏みしめるその姿はたくましく、安心感をもたらしてくれるのだ。そっけないほど無骨なビジュアルも好ましい。
停車駅はフィンデルバッハ、リッフェルアルプ、リッフェルベルク、ローテンボーデン、そして終点のゴルナーグラート。どの駅からも、スイスアルプスを眺めながらの登山道やハイキングコースにアクセスできる。
終点で下車すると、駅前では山岳救助犬として知られるセントバーナードが2頭、愛想よく乗客を出迎えていた。青空とスイスアルプスとセントバーナード。スイスといったら誰もが思い描く、絵に描いたような風景が、目の前にあるのだ。落ち着いた雰囲気の上品な老婦人まで、悲鳴に近いような歓声を上げる。まったく…。スイスという国は、旅行者を遊ばせたり、喜ばせる術に長けている。
展望台へ向かう流れに逆って、いま一度ゴルナーグラート・モンテローザ鉄道の美しい勇姿をカメラに収める。「鉄道ばかり見ていないで、あの絶景を楽しみなさい」。一服する運転士に、あっさり追い払われてしまった。
取材協力/スイス政府観光局 スイストラベルシステム/レイルヨーロッパ
■江藤詩文(えとう・しふみ) 旅のあるライフスタイルを愛するフリーライター。スローな時間の流れを楽しむ鉄道、その土地の風土や人に育まれた食、歴史に裏打ちされた文化などを体感するラグジュアリーな旅のスタイルを提案。趣味は、旅や食に関する本を集めることと民族衣装によるコスプレ。現在、朝日新聞デジタルで旅コラム「世界美食紀行」を連載中。