恵子さんがしたためた「おれいのことば」。昨年11月から12月にかけて執筆。連絡先の名簿を作成、会場やしつらえなども準備していた【拡大】
「最後は家で」は願いだったが、本人も家族も「在宅看取りなんて無理だろう」と思っていた。それでも始めたのは、家に介護の担い手がいたことが大きい。夫の弘さん(75)=同=は退職後で、長女の裕子さん=同=は介護福祉士。仕事を辞めて母親の看護と介護を始めた。
秋のある日、いつもの痛み止めが効かず、恵子さんは激痛と高熱で越川病院に入院した。痛み止めを変更し、1週間ほどで痛みは治まった。だが、本人も家族も退院が不安だった。病院なら急変にも対応してくれる。退院してしまったら、再入院できるのかも不安だった。しかし、越川院長は「必要なときは連携病院に入院してもらい、ウチが治療指示を出しますから」と言い、「弱気になったら帰れなくなっちゃうよ」と励ました。弘さんは「帰りたい本心を知って、わざと明るく言ってくれた」と振り返る。
2週間で退院。痛み止めは飲み薬から24時間投与の点滴になった。痛ければボタンを押せば緊急投与もできる。危険な量は投与されないが、押した記録は残る。薬の増量・変更を検討するためだ。「あんな機材があるなんて知らなかった」(長男)
不安を抱えて家での看護を再開した家族だったが、分かったことがある。「病院でも家でも、できることは変わらない。病院は安心だけど、病室では明け方まで1人になる。家ではいつも誰かの声がする。寂しさはなかったと思う」(弘さん)
12月には点滴をごろごろ押して選挙に行った。年末にはぶり雑煮など郷土のおせちを裕子さんに伝授した。大みそか、テレビで「ゆく年くる年」が始まるとき、恵子さんは立ち上がって家族に言った。「いろいろありがとう。幸せだった」
お別れ会は「ラッシュ時の車内みたい」(長男)に込んでいた。弔問客には恵子さんの手紙が渡された。「お礼に」とつづられたのは、38年間の教員生活で得た「子育てのヒント」。最後まで教師だった。