▼なぜ武田信玄は「甲斐の国に何かあれば謙信を頼れ」と言ったか
それには、越後一国を統治する理念が必要である。現代の会社に当てはめればミッションといえるだろう。上杉謙信が掲げたのが「第一義」という言葉である。禅の思想から生まれたものだが、それをよく物語る逸話がある。ライバルの武田信玄でさえ、死の床にあって「甲斐の国に何かあれば謙信を頼れ」と遺言したと伝えられているのだ。
史実は確かではないが、謙信の美談に「敵に塩を送る」というものがある。信玄と今川氏真との同盟が破棄された後、氏真は海のない武田領への塩の輸送を全面禁止した。謙信はこのことを耳にし「卑怯な手段を取るべきではない」と、越後の商人が塩を送ることを黙認したという。こんな逸話が生まれるほど、宿敵に対しても感情にとらわれた選択はしなかった。
なぜ上杉謙信は「軍神」と呼ばれたのか
ところで上杉謙信は、合戦に臨むに際して、居城・春日山城の奥にある毘沙門堂にこもって戦勝の祈願を行った。毘沙門は北方を守護する四天王のひとりだ。その声を聞き、軍配を執った戦いはほとんど負け知らず。越後が、京から見て北に位置することから、謙信は「われを毘沙門天と思え」と周囲を鼓舞した。
やがて、家臣たちもそれを信じたのだから、そのカリスマ性はすごいというほかない。これは、イメージ戦略のようなもので、謙信が非常にストイックな生き方をし、欲得にまみれていないから、軍神としての位置づけが可能になったのだろう。
また謙信の強さは、自由な精神にあったと思う。誰もが常識や欲に支配されることで不自由になるものだが、自分に素直に生きた謙信はそれと無縁な存在で、力を存分に発揮できたのではないか。