
大村益次郎碑=24日午後、大阪市中央区(須谷友郁撮影)【拡大】
大村が歴史の表舞台に姿を現したのは、江戸開城後、旧幕府軍の残党である彰義隊を1日で鎮圧した上野戦争からだろう。その後も、北越、奥州、箱館と続く戊辰戦争で新政府軍を指揮し、約1年で維新の革命戦争を終結させたのである。
その功績で新政府の軍政を統括する兵部省の事実上のトップになり、軍制改革に乗り出す。大村の構想は、廃藩後、徴兵制による国民皆兵を基礎に中央軍を創設しようとするもので、その前段階が大阪に兵部省の機能を移し、兵学寮(幹部養成学校)、造兵司(軍需工場)を建設することだった。
東京でなく、大阪を軍事上の重要拠点にした理由については、大村の周到な計画があったとされる。
新政府内ではまだ奥州再起論が強かった頃、大村は周囲に「奥羽は10年、20年、頭をもたげない。それよりも九州からいずれ足利尊氏のごとき者が起こる」と断言。すでに薩摩の反乱=西南戦争を予見して九州に近い大阪に拠点を置こうとしたというのである。
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明治2(1869)年9月4日夕、京都三条木屋町の旅宿で大村は8人の刺客に襲われた。大阪城などの視察を終えての帰りで、前額と腕、右膝などを斬られ、重傷を負った。
1カ月ほど京都で治療を受けた後、洪庵の次男、緒方惟準(いじゅん)が院長を務める大阪府病院に入院。オランダ人外科医、ボードウィンによって右足の切断手術を受けたが、すでに手遅れで、敗血症のため、11月5日、弟子たちにみとられながら死去した。享年46。