
大村益次郎碑=24日午後、大阪市中央区(須谷友郁撮影)【拡大】
暗殺事件の実行犯は、軍制の洋式化に反発する元長州藩士ら狂信的な攘夷主義者だった。背景には、武士階級を否定する徴兵制への不満のほか、大村の傲慢な言動に対する怨恨(えんこん)や異例ともいえる栄達への嫉妬-などが複雑に絡みあい、黒幕説も根強く残る。
維新史に遅れて現れ、駆け抜けるように消えた大村。切断された右足は、遺言により、洪庵夫妻の墓がある龍海寺(大阪市北区同心)に埋葬されている。(今村義明)
◇
大阪府病院 大阪府知事、後藤象二郎らの建言で政府直轄病院が大阪に建設されることになり、明治2(1869)年3月、「大福寺」(大阪市天王寺区上本町)に仮病院を設置。院長の緒方惟準をはじめ適塾出身の医師が参加し、同年7月に鈴木町代官屋敷跡(中央区法円坂)に移った。その後、名称の変遷、移転を経て現在の大阪大学医学部付属病院となる。代官屋敷跡には戦後、大阪陸軍病院を前身とする国立大阪病院(現大阪医療センター)が移転した。